3.後期(1994年~2007年)
著作 この時期、私は3冊の岩波新書を書いています。大学で講義の内容はもっぱらそれを中心にした現状分析でした。学生には、こうした講義は労働組合論を切り口にしていたときよりも、とくに女子学生にはずっと好評で、その点ではうれしかったです。
(1)『能力主義と企業社会』は、日本的能力が求められる職場での労働状況をいろいろな角度から描きました。先にも少しふれましたが、日本の企業が要請する能力は、フレキシブルな適応力、つまりどんな働き方でもできることと、自分の生活全般を企業向けにコントロールしていく「生活態度としての能力」です。現状分析のあと、最後に働き続けてゆける職場のためにはどのようなチェックが必要かを「ゆとり、なかま、決定権」をキーワードとして探りました。このキーワードは、働きすぎ、競争による労働者の孤立と連帯の喪失、労働のあり方についての経営の専権を克服しようというよびかけにほかなりませんが、かつての表現よりもかなり穏健ではあって、いわば「後退戦」なのです。この本は16刷、11万部ほどの私にとっては最大のベストセラーになっています。
(2)『女性労働と企業社会』は「女性労働者の戦後」に続くまとまった著作で、執拗な性別職務分離、女性労働者自体の階層分化、性差別の抵抗から内面化までの幅をもつ女性の対応意識という、これまでの女性労働論ではあまり重視されなかったように思われる3つの論点を重視して、職場のジェンダー状況を包括的に分析しました。ジェンダー構造に対応する女性の意識には、左端には抵抗があり、右端には性別職務分離と性別役割分業の完全な内面化、すなわち「これでいいのよ」と性差別を容認する態度があります。この左端と右端の中間に、「高望みすると自分がしんどいだけだから欲求のほうをコントロールする」という「調整」と、「こんな時代だからどこかで我慢しなければ仕方がない」「妥協」があります、この二つの中間に属する人が一番多いと思います。この本に対しては、高い評価の一方、これはひっきょう男による女性労働論であるからなのか、女性研究者などからかなり反発もありました。しかし松井やよりさんからは、男の女性労働分析であるがゆえにむしろ女性の意識をむしろ深く分析することができたのだとほめていただきました。いずれにせよ、これは論争の多い本でしたが、私自信はとても好きな著書です。
(3)『リストラとワークシェアリング』では、平成不況期の「失業・リストラ-働きすぎ-非正社員差別」が相互連関的に共存する状況に対して、「一律型」および「個人選択型」の二形態をもつワークシェアリングの思想と営みを対置しています。しかし日本では、労働時間短縮のめどがなかなか立たない。あまりにも労働時間管理が曖昧化していて、成果主義のもと個人ごとに残業が命じられたり、個人の労働時間が裁量的になっていることも多い。みんなの労働時間を短縮して、賃金収入は減っても雇用機会を増やすという地点に議論がなかなか行きつかないうらみがあります。
この本を書いた直後からワークシェアリングについての関心は急速に衰えましたが、08-09年、この雇用情勢の悪化の中で再び関心がよみがえり、この本も版を重ねることになりました。しかし労働時間短縮の方途を見いだせないのは以前と同じで、議論は混乱しています。それでも、労働者にとって必要な改善策をひとつだけ言えということでしたら、やはりワークシェアリングです。いや、80年代の日本にワークシェアリングを制度化できなかったことが「諸悪の根源」になっているとさえ思います。
大学を退職する時期の(4)『若者が働くとき―「使い捨てられ」も「燃えつき」もせず』は、企業の労働力需要の論理を基点にして、働けないニート、非正規雇用のフリーター、働きすぎのストレスに悩んでいる正社員の三つを、別々の存在ではなく、地続きのありようと捉えて分析し、労使関係、教育、若者の意識の三面から状況変革の方途を探りました。この本は、私が大学を去るにあたっての学生たちへのメッセージでもありました。これで若い人がどれだけ読んでくれるか。その試金石のつもりでした。
最後の著書、(5)『格差社会ニッポンで働くということ―雇用と労働のゆくえをみつめて』は、40年間勤務した大学での講義を格差社会というキーワードで再編成した語りの本です。いままで勉強したことの上に立って格差の諸側面を考えるとき、どういう切り口が大切か、主要な課題はどこにあるかということを述べた、かなり総括的な書物です。
ふりかえってみると、岸本英太郎先生が76年に亡くなられたあと、私はいずれの研究者団体の中にも継続的に属したことがありませんでした。そのため、テーマ設定や方法論はきわめて自由だったともいえます。生前の先生から勉強の具体的な指示を受けることもありません。幸せだったか不幸せだったか、それはわかりません。ただ、あらゆる意味での研究上の自由の代価として、私の研究にある方法上の恣意性がまとわりついていることは確かでしょう。だから、今日聴いていただきました話がアカデミックな意味でどういう意味があるのかについては、まったく自信がありません。
私にとって社会との経路は、あるいはきざな言い方にきこえるかもしれませんが、学会ではなく、働く人びとを中心とした読者だけでした。読者の声によって自分の方法の恣意性の調整を行う、感性的につかまえた次のテーマに取り組む際、恣意性の調整につとめる――そんなフリーライターみたいな研究態度でした。ですから、研究者の皆さんに対してもこういう「自意識過剰」のお話になってしまいましたこと、お許し下さい。長時間のご静聴ありがとうございました。これで終わらせていただきます。
『大原社会問題研究所雑誌』611-612号(2009年9-10月)所収








