2.中期(1979年~1993年)


ところで個人の体験を描く場合、主な資料としては、ルポルタージュ、私記、ドキュメント、裁判資料、新聞、現場労働者とのヒアリングなどを使いました。意外に大切なのは裁判資料です。研究者が企業調査をする際、企業が「この点は社外秘、これは発表しないでほしい」と言えば、どうしようもないでしょう。しかし裁判では、質問されれば企業は答えなければならないのです。以前、アメリカの労働現場の差別問題に関する第一級の資料は公民権裁判の記録だと聞いたことがあります。日本でも労働裁判の資料が労働問題研究にもう少し使われていいのではないかと思います。私は上野仁氏に対するいじめ問題では裁判資料をかなり使い、いま行っている過労死・過労自殺研究では、判決を主資料としています。それから、資料としての新聞について一言。新聞は大切なことを書かないことがありますが、書かれていることは事実(ファクツ)です。記事をよく読んでみると、あれほどのファクツをわずかの字数の中によく詰め込めるものだと思います。こんなことのできる研究者はめったにいないでしょう。最近の個人の体験に密着したワーキング・プアの報道などでは、実に優れたものが多くあります。また、新聞記事にはかならず年齢が書かれているのは意外に貴重です。労働者の体験における年齢の意味を決して無視してはならないからです。新聞はかなり役に立ちます。私たちが明治時代のことを勉強するのであれば、まず当時の新聞を調べるでしょう。アカデミズムでは嫌われますが、新聞は労働研究の公庫の資料といえます。また、現場労働者からのヒアリングも、もちろんあらゆる機会をつくって行います。私の場合、ホワイトカラーについてはゼミの卒業生からよく話を聴きました。

この中期に、もう一つ重視するようになった視角は、経営の要請を受容する労働者の意識です。これは「単純労働をどういう条件のもとで人は引き受けるのか」という初期の問題意識の延長上にあります。「日本のサラリーマンの多くは日本的経営について結構ハッピーと感じている」という意見はかなりあります。しかし、それについての私の命題は「強制された自発性」にほかなりません。「ハッピー」と感じもする日本の労働者の行動選択は、奴隷ではない限り「自発的」であることが多いのですが、その決定はある抗い難い条件を前提に行われているのです。

たとえば働きすぎについて。企業の要請としての働かせる論理は、達成すべきノルマなどのかたちで厳然と存在します。しかしその上では、サラリーマンは「たとえば仲間に迷惑をかけるから」とか、「家族に中流階級的な生活をさせたい」とかの気持から無理してでも「働いちゃう」。つまり「働かせる」と「働いちゃう」が一緒になって働きすぎが生まれており、そのどちらの要因も無視することは許されません。強制された自発性は、高校生がフリーターを選択するときにも、家事を担う中年の主婦がパートタイム雇用を選択するときに支配的でしょう。真空状態でパートタイムを選択するというより、パートタイムの職しかないという現実を踏まえて、それなら「仕事と家庭を両立できる」とみずからを納得させるのです。労働者は、押しつけられたという惨めな気持ちだけを抱えては元気に行動することができないと思います。「自己否定でやっていけるのは全共闘の学生だけ」(笑い)です。労働者は、何らかの肯定的な要素を自分の選択に託すことによってやっていけるのです。強制されてはいるものの、あと半分はあえて自発の側面を見いだしてはじめて、労働者の行動が成り立つのです。

労働者意識についてもうひとつ言えば、ノンエリートの女性労働者は「被差別者の自由」という感覚がなじみぶかいのではないか。この言い方は、ある女性研究者から非難を受けましたが、私はこの命題に固執しています。女性は仕事や労働条件で男性サラリーマンと同等に扱われず差別されている、それゆえ、企業第一・仕事第一と考えなくともよい自由を享受することができる、これが「被差別者の自由」です。