~エッセイ~私たちの労働・生活・社会



その4 小さな生活圏のいじめと暴力 (10.9.5記)

いじめと暴力の時代というべきだろうか。ときには悲惨な死を招く児童虐待は2009年、児童相談所へ通告されたものだけでも4万4000件。ドメスティックバイオレンスは、09年の警察庁の報告では2万8000件。学校のいじめは、06年の文科省調査によれば12万5000件。小学校の48%、中学校の71%、高校の59%になんらかのいじめがあったという。職場ではパワハラやセクハラが絶え間ない。07年に東京都労働局へ寄せられた労働相談5万5000件弱のうち、前者は5258件、後者は2723件を数える。以上のようにおおよそが把握されるいじめと暴力は深刻なことに、いずれも増加または激増の一途にある。

これらの増加や激増は、あるいはそれぞれのいじめの定義の拡大と、それぞれの被害の訴えを受けとめる機構の一定の整備やそこで働く感性ゆたかな人びとのがんばりの結果かもしれない。とはいえ、なんらかの事情で訴えない、訴えることのできない受難者のほうが、訴えて認知される人よりもなおはるかに多いことはほぼ確実なのだ。こう考えるならば、日本の現時点では、無視しえぬほど多くの人びとがそれぞれの生活圏のなかで、社会の良識からみれば「なぜこんなことが?」といぶかしく思われるほどのいじめや暴力に耐えているといってもさして過言ではあるまい。


なぜこんなことが起こるのか。それぞれの生活圏にみられるいじめと暴力にはそれぞれ固有の要因もあるゆえ、児童虐待もDVも、教室のいじめも職場のハラスメントも一括して考察するのはあまりにラフな議論であることは認めるけれども、ここではあえて共通する性格に注目することにしよう。こう考えることができる。

ふつうの人びとの日常は、家庭や学校や職場という小さな生活圏・「界隈」に属している。その界隈にたいてい小権力者・ボスたちがいて、その境界内では習慣的に彼/彼女の支配に服する下位のメンバーに、意識的または無意識的にいじめや暴力を行使するのである。ボスたちの信じがたいまでの非情の言動は、「出るところへ出れば」社会的には容認されないゆえにたいてい隠密裡に行われるけれども、問われれば、嗤うべきことながらしばしば「躾」、育成・指導・訓練、ときには「愛情」などをその「理由」としてあげる。しかし本当のところ、この小権力者たちはおそらく、ままならぬ外部世界のなかで胸中に沈殿した重い鬱屈を、従わせうる者たちへのいじめや暴力で発散させているのだ。長く失業中の父または母の「男」、ゆとりのない勤務ゆえにどうしても育児を耐えられぬ負担と感じてしまう母、仕事での不如意から妻につらく当たる夫、学校で学びのよろこびを見つけられない生徒、そしてみずからに課せられたチームノルマの達成に十分に寄与できない部下にいらだつ会社の上司──小さな生活圏のそんなボスたちがしばしば加害者になる。

それにしても、では被害者たちはなぜその界隈から逃れないのか。幼児や子どもはもとより成人でさえ、家族の支えなしには、安定した雇用の保障されないスポット労働市場では、生きてゆくことができない。家庭や教室や職場という小さな生活圏で人間として尊重されてはじめてやってゆけるのだ。それに脱出するには、一人でも自立できるという経済的資源も、他に生きるよろこびを見つけることのできるという文化的資源も必要である。しかし被害者たちはふつう、年齢的にもジェンダー的にも、社会的に評価される仕事能力の点でも、それらの資源に恵まれていない。加害者のいじめや暴力はそうした資源格差をみすえたうえで続けられる。「お前なんかどこへ行っても役立たずだ」というわけだ。それに「内」のことを「外」へ訴えることは、メンバーシップの「掟」を裏切ることとみなされ、そうすればさしあたりいっそうの処罰を招きかねない。被害者が受難をなかなか「外」に訴えず、しばしば寡黙に終始するのはそのためであろう。

こうして不運な受難者たちは、ボスの言動など社会的には通用しないとわかっていながらも、小さな生活圏にうずくまり、生活時間のうちそこで過ごすことが多いこともあって、いつしか自分の居場所はここだけだけだという思いに囚われてゆく。時間と意識の上で全面的にその界隈にあることに囚われたままでいじめや暴力が続くならば、ストレスがきわまり、心のバランスは危うい。あきらかにこの生活圏でのいじめと暴力の頻発が、世に言う「メンタルクライシスの時代」の背景にある。そしてこうしたメンタルクライシスが、またいっそう被害者の囚人化をもたらすのである。


くりかえしいえば、子どもであれ大人であれ、人はその生活圏が帰属できる居場所でなければ平穏に生きることはできない。歴史的にみても、そうした生活圏はときに優勝劣敗の競争という「悪魔の挽き臼」に個人を投げ込もうとする外部社会に対する庶民的抵抗の培養基であった。だが、その生活圏が人権抑圧の場であるならば、人はいっそう生き耐えることができない。だからこそ小さな生活圏でのいじめと暴力は、決して見過ごされてはならないのだ。児童虐待、DV、教室のいじめ、職場のハラスメント・・・どの場合についても、それゆえ、ボスたちの調教が社会的に通用しないことと見定めて、まずは「馬鹿野郎、あんた何様と思ってんだ!」と怒鳴ってみよ。これはボスたちが弱者と見くびっていた者たちの「想定外の」の反撃であって、案外、状況は一挙に好転するかもしれない。

もうすこし立ち入って論ずるなら、平凡ながら次のような提言は可能であろう。

小さな生活圏は不可欠であるだけに、その界隈をメンバーのすべてが抑圧されることのない、自由な発言の通るソサイエティに変えることが必要だ。その大前提の上で、ひとつには、一般社会の市民常識がその界隈のいじめと暴力に早々に介入できる制度や慣行を樹立することが要請される。介入を控えさせる楯となっている家庭内のプライヴァシーや「学校の体面」や「不可侵の経営権」はひっきょう、支配を享受するボスたちの私権にすぎないことが多いからだ。そして今ひとつには、制度上も、受難者の意識の上でも、界隈にあることを部分化する工夫・ノウハウが求められよう。

たとえば、訴えた者が決して不利益を受けない内部告発の権利は絶対に擁護されねばならず、さまざまの「駆け込み寺」が設置されねばならず、そこで働くスタッフは「護民官」として有給の職業人でなければならない。労働組合のナショナルセンターなどは今こそ、「職場の自治」という名の上司の専制が個人を圧迫しているという陰の部分を忌憚なく見つめ、労働組合をその名に値するソサイエティに作り直すべきなのだ。現時点の日本において、いじめと暴力はすでに、例外的に人格のいやしい家庭や学校や職場のボスのみが行使する、まれに起こるニュースにとどまらない。