~エッセイ~私たちの労働・生活・社会



その7 労働者としての教師 (2011.2.15記)

教師グループや教職員組合から講演を依頼されることがある。要望されるテーマはまず、著書でも論じたことのある「若者の仕事と職場」と「職業教育の意義」である。 この二領域をあわせて考えようとする問題意識はたしかに的確であろう。それでも、とくに組合主催の講演の場合、「教師の労働環境・労働条件」について語れという依頼が意外に少ないことが私には不満なので、講演ではあえてその領域にふれさせていただく。教師がみずからもふつうの労働者にほかならないと思い、職場としての学校の深刻化しつつある状況を凝視し、みずからその状況を改善してゆく方途を模索することなくしては、卒業生たちが(正規雇用であれ非正規雇用であれ)およそ今の職場で体験するしんどさを「わがこと」のようには実感できず、若者が労働の場で生きてゆくに必要なことを語るべき職業教育の主体性が構築されないと思うからである。


教育の現状を批判的に語る人は多いけれど、それを「労働者としての教師」「職場としての学校」の労働条件・労働環境にみる近年の過酷さとの密接な関連を意識して論じる人はそう多くない。その一端を概観してみよう。

たとえば小・中学教師の勤務時間は、文科省久方ぶりの調査(06年)によれば、夏休みをのぞく5ヶ月平均で日に10時間45分におよぶ。年間では1960時間。OECDの平均を265時間も上回る。月当たりの残業は40年前の5倍に増えて42時間である。愛知県では2010年春、残業が月80時間超の高校教師が13%にのぼった(教育委員会調査)。以上は、この職業にとくに多い在宅仕事をのぞいての数値である。

ここに注目すべきは、日本では授業(およびその準備)以外の諸業務──生徒指導、学校の運営と行事、会議、書類作成、クラブ活動、保護者への対応・・・などの所要時間がきわめて長いことである。上の1960時間内では590時間。授業時間そのものはむしろOECDの水準以下なのだ。とくに小・中・高校では事務職員数がきわめて少なく、教師は授業や生徒との対話、あるいはあらたに自己の視野を広げる読書や旅行などに時間とエネルギーを使うゆとりをもてない。教員のうちでも、人件費は安くとも授業以外の仕事は頼めない非正規教員が、小・中学校ではすでに14%強になる。


長時間労働などにみる仕事の過重さ自体は、仕事そのものに大きなやりがいを感じることのできる教師には一定耐えられるかもしれない。だが、教師に対する近年の統制と管理の強化、そのもたらす職場の人間関係の緊張が、それを耐えがたくしている。

現在では【自治体の教育長⇒校長⇒主任⇒一般教員】という上意下達の統制体制に、教師はいつしか抗いがたくなっている。天皇でさえ「まぁ強制になってもね」とやんわりたしなめたほどの、東京都での「君が代斉唱・日の丸掲揚」の業務命令化、日教組北海道支部の選挙違反を奇貨とする、教師個々人の組合活動への関わりを、同僚の行動の見聞きもふくめて校長に詳細にききとらせる北海道教育委員会の調査などは、その代表例といえよう。しかしより日常的な統制管理としてインパクトを与えるのは、自己申告制をもとに教職員の勤務成績を5段階に査定して昇給時期やボーナス額に反映させる、たとえば「評価・育成システム」や能力給制度の導入である。

こうした制度は、査定によって生まれる処遇格差の程度はさまざまであれ、すでに東京、神奈川、香川、広島などに導入されている。東京都品川区で実施されている「目標管理・PDCAサイクル」を紹介してみよう。『教育』誌上の対談で佐貫浩に教えられたことだが、ここでは、学校が「学力テスト○○点達成」などの目標を掲げる、各教員はその線に沿ってプラン・実践・評価・改善行動の計画書や結果報告書の提出を求められるとともに、面談で年間の「自主的な」達成目標を決めて努力を誓う、校長は年度末にその「成果」を評価して、定昇額の格差をつける──という。

不思議なことに、いや不思議ではないのか、総じて保護者もこの制度に肯定的(?!)だという。ここには現時点の市民の競争主義的な世智というもうひとつの難問が立ちはだかっているけれども、ともあれ、こうした統制と管理の強化は、教師間の助けあい・庇いあい、問題の共有と対処の共闘、要するに連帯をずたずたにしている。教師は自分の処遇や配置に響く査定を怖れて、自分のクラスで遭遇する教育上、生徒指導上、または対保護者関係上の問題そのものを同僚や学校に知られまいとすらして、一人でむなしくあがくことになるだろう。かつては討論の場であった職員会議も管理者の一方的伝達機関に堕している。困難を抱える教師は孤立せざるをえない。

ゆとりのない過重労働をなかまの助けあいのない職場環境のなかで黙々と遂行する鬱屈の蓄積が、教師を心身の消耗に追いつめている。すでに旧聞に属することだが、95年から06年にかけて、公立学校教員の病気休職者は2.2倍、うち精神性疾患による者は3.8倍、前者のなかでの後者の比率は34%から61%に増えている。08年には病気休職者8578人、うち鬱病や適応障害など精神性疾患者は5400人、その比率は63%。この3数値とも過去最高であった。その波頭ともいうべき教師の過労死・過労自殺も後を絶たない。一方、朝日新聞の調査では、かつてはあまりなかった小中高校教師の定年前退職が、ここ数年では年平均1万2000人を超えている・・・。 


仕事範囲の拡大と長時間労働、非正規雇用の増加、能力・成果主義による査定の強化、連帯の風化と労働者の孤立、それらの総結果としてのメンタルクライシスに陥る人の激増、そしてみずからの仕事のあり方に関する労働者の発言権の衰退──以上にほんの一端をピックアップした教育労働の状況は、そのしんどさにおいて多くの民間企業の正社員がいま体験しているそれとほとんど変わらない。にもかかわらず、小学校から大学にいたるまで多くの教員は、意識の上でみずからをふつうの労働者と区別し、そのことを通じ、無意識のうちにみずからを、卒業生を待ち受ける仕事と職場の深刻な状況について疎くし、その結果、とりわけ就職のイス取りゲームで恵まれたイスを得られない中高卒者や非ブランド大卒の若者たちに生きるすべを語ることができないでいるようにみえる。

上にみたような教師の労働・職場・管理の変化こそは教育労働運動衰退の最大の原因にほかならない。けれども一方、まぎれもなく組合が弱くなったから教師の仕事がこのようにもつらくなったのだ。今「労働者としての教師」「職場としての学校」という視点を一蹴するような、「ふつうの労働者ではない」という教師自身の奢り、あるいは教師に対する「世論」の奇妙な期待が、耐えがたい教育現場の状況変革の手近な方途、すなわち組合運動の活性化から教師たちを遠ざけている。「日教組の支配が教育をだめにしている」と一部の政治家は言う。「マジかよ?」と思う。教師の組合は弱体に、また臆病になりすぎているのだ。それが教師の尊厳と発言権を低めることを通して、仕事に向かう若者たちを元気にするような教育の質を危うくしている。