~エッセイ~私たちの労働・生活・社会



その11 わが街四日市で脱原発を訴える市民デモができた! (2011.9.15記)

今年7月2日、妻と私は、ある映画会の帰途、四日市で男女共同参画の委託事業を中心的に担うもと市職員、高校の新聞部1年後輩のK・Sなど(以下、敬称略)3人の女性たちと喫茶店でくつろいでいた。そのとき話題が原発事故に及び、私は東京の反原発デモの動画で、いかにもデモなどには不慣れそうな若い女性が、手づくりのプラカードに「これまで原発に無関心でごめんなさい」と書いていたことをみて、なにかじんときたと話した。それを契機に話題がひとつの流れになった。あるいは無謀といえようか、組織をもたない主婦など運動の素人たち5人が一挙にこう決意したのだ──「わが街」四日市でも脱原発を訴える市民のデモをやろう、なにはともあれ日を決めよう、震災半年後の9月11日にしよう、主催は「市民有志の集い」、政党や労組といった組織に頼ることなく、10人でも敢行するつもりでよびかけよう、ならばデモはできる・・・。


まず、半世紀にわたって四日市公害を告発し記録し語ってきたY・S、子どもやお年寄りを守るヴォランティア活動で知られるM・M、もと新聞記者のM・O、喫茶店グループの主婦Y・Oなどが依頼に応えてよびかけ人になった。高齢者に偏るのはさしあたりやむをえなかった。さらに、忌憚なく記そう──以前から憲法擁護、環境保護などの集会を組織してきた方々でも、「○○はあそこの人」と目されそうな友人はよびかけ人からは外した。だが、敬愛するその方々は、ふつうの市民こそが主体という趣旨をよく了解され、裏方の実務に決して骨身を惜しまれることがなかった。

仕掛人として「市民の集い」の代表になった私は、配布するには少し文章が多くてかたい定番ビラを書いた(後に協力者たちによってより美しい配布ビラがいくつかつくられている)。主張は反原発論として独自性があるわけではないので、くわしく記す必要はないだろう。福島の受難を私たち自身のことと受け止めよ/原発が安く安全だというのはまったくの神話にすぎない/まず脱原発に舵を切れ/国民の7割以上はいま脱原発を支持しているけれども、市民運動の全国的な台頭がなければ、その選択も既存のエネルギー供給体制に依存しつづける政財界によって政治的には無力化されてしまう・・・。私たちはそう主張している。

猛暑の8月18日、17名出席のよびかけ人・協力者会議に、私は具体的な作業のこともふくめて多くを提案し、延々3時間以上の討議を経てすべてが決まった。この会議なしにはデモは実現しなかっただろう。これにもとづいて、8月31日には記者会見(後3紙に報道される)があり、横断幕、配布ビラの大量印刷は、かねてから社会問題に関心の深かった四日市市職労のリーダー、R・N、T・Fの両氏に委託することができた。なによりも大切だったのは、決定にもとづいて、9月6日~10日の連日、近鉄駅前の通勤路、高校前、そして四日市でもっとも繁華なショッピングモールでビラまきをしたことである。毎回、8人~10人のなかまが駆けつけてくれた。

組織の情宣と動員の力も、高齢でネットの駆使もままならない私たちにとって街頭でのビラまきはとても心労に満ちた作業である。体力のみではない。経験すればすぐにわかることだが、「国民」のかなりの部分は、アンケート用紙には脱原発と書いても、実際に脱原発の運動を営むのはどうせ共産党か過激派と考え、関わり合いになりたくないと顔をこわばらせる連中である。ビラを受け取ってくれる率は、モール、高校前、通勤路の順であるが、総じて50~55%だろうか。人の属性別では、男性よりは女性(とりわけ子ども連れの女性)、「大人」よりは高校生。総じて「堅気の」サラリーマン風の人がもっとも警戒的であった。彼らの多くは、私たちのゼッケンやビラ表面の「わが街四日市で脱原発のデモ」という文字をみるだけで、あたかも生活を脅かすエイリアンに出会ったかのように顔をこわばらせて足早に通り過ぎた。社会の中堅層には、社会運動というものへの徹底した不信が定着してしまっているかにみえる。だから、ビラまきはある意味では孤立感にさいなまれる。だが、そこにこそ、自分たちを奇異な者たちと感じているらしい「ふつうの」人びとにあえてよびかけるところにこそ、公害告発であれ憲法擁護であれ、総じて気心の知れたいつもの知己に出会う集会とは異なる、これから必要な社会運動の決定的な意義があるといえよう。どこまでもそこに執着したかった。

ちなみに私は、この四日市市生まれ、高校卒業時までそこで育った。1957(昭和32)年春、大学入学のため京都に赴き、その後、職場の甲南大学を退職した2006年の冬までのおよそ半世紀以上、関西にあって故郷を離れていた。伝え聞くところ、その四日市は、70年当時の四日市喘息の提訴・勝訴以来、公害に抵抗する強靱な社会運動を展開しえないできた。全体として保守的な土地柄でデモはまずなかった。よびかけ人に対して、利用されるだけだ(誰に?!)、深入りするな、と「忠告」するやからもいたのだ。だからこの「素人の乱」の成功は覚束なくみえ、10人でもはじめるつもりだった私たちは、50人参加があればまぁいい、100人きてくれれば成功かなぁと思っていた。届けに行った警察の親切な警備係長も、四日市で100人は大変ですよと言ったものだ。しかし私たちは、少なくともこの2ヶ月、よびかけに全力を注いできただけに、やはり多くの参加を切望する。当日の天候をはじめいろんなことが心配だった。「事務局」というものがないだけに、最後には、ビラまきの誘いをはじめ、細部の手配のため多方面に連絡することが予想以上に心労の種だった。私の場合、早朝覚醒(午前5時頃目覚めてくよくよ思い悩む症状)が続いた。


9月11日16時。デモの前の小集会がはじまるころ、市民公園には確実に数えうるだけで250人、おそらく約300人ほど人びとが集まっていた。女性ひとりも多かったが、家族連れもたくさんいた。若いカップルも少なくなかった。伊勢市、津市、桑名市、名古屋、岐阜、京都からの参加者もあった。名古屋在住の大学時代のゼミの後輩にも出会うことができた。さまざまの手製の横断幕、プラカードがある。ゼッケンをつけた車いすの人。小さなゼッケンを胸につけた子ども。ある女性のプラカードは「本当はデモなんかしたくない、原発のバカ」と読めた。先頭の「市民の集い」名の横断幕を支えてくれた女性は、繁華街でビラを受け取った方だった。

主催者の短い集会メッセージ、福島大学准教授による興味ぶかい「福島レポート」のあと出発した約3キロのデモは、車の通行の多い横断歩道やゆっくり歩く高齢者もあって、途切れがちに延々と続いた。素人の手づくりのデモ、緩やかなパレードだった。バックのサウンドに選んだのは、曲:ボブ・ディラン、歌詞・歌:忌野清志郎。美しいメロディに「陽はまた昇る」というリフレインが印象的だ。私も多様な人びとの自由な歩き方をみつめて自由に歩く。デモというだけで拒否反応する人も少なくない地方都市・四日市でも、ここまでは可能だった。その思いがこみ上げてきて、それまでの疲れと鬱屈を伴った心労がゆっくりとほぐれてゆく。