~エッセイ~私たちの労働・生活・社会
その1 若い世代の貧困と医療格差 (10.3.30記)
格差社会化が若い世代の健康に及ぼす深刻な影響についての情報はいま数多いけれども、わけても忘れられないのは、学校の養護教諭らによる次のような報告であった(朝日新聞09.10.18)。
登校中に自動車事故にあった埼玉県の高校生は、家には「保険証がないから」と救急搬送を拒んだ。兵庫県の高校では、3000円の予防接種料を出せないと言う生徒も少なくなく、昨年の摂取率は17%に留まる。和歌山県の中学では、視力が0.9以下になると渡される視力手帳を「ぐちゃっと丸めてしまう生徒がいる。母子家庭の母親に眼鏡代の負担をかけまいとしている」のだ。病院に行くのを避けて、身体の不具合はできるかぎり保健室で直そうとする、保護者からそうするよう頼まれている。そんな生徒も多いという。
貧困世帯ではおそらく歯の検診結果への対応についても大同小異であろう。東京都立川市の相互歯科医院の08年調査では、ひどい虫歯の放置による「口腔崩壊」24例のうち、半数が経済的困窮を訴え、3割は父親が失業中や一人親だったという(毎日新聞2010.3.21)。健康保険料未納の場合も多いと思われる。いま国民健康保険の収納率は低下の一途を辿っており、未納率は前項で10%超、フリーターなどが多い大都市では13%以上に及ぶ。歯科治療など3割の支払いでもときおり高額で驚かされるほどだから、保健証のない場合の10割負担(保険料滞納1年半の間でもいったんは全額負担)が、よほどのことがないかぎり貧困世帯の通院をためらわせることは確実である。
やむをえない「育児放棄」にも似た子どもの不健康の放置は、それじたい悲惨事であるばかりか、将来にもハンディキャップを残す。たとえば、歯科医療保険のない人は国民の三人に一人、約一億人に及ぶというアメリカ。そこでは歯の状態は就職の成否を大きく左右するという。他の病気とは違って歯には自然治癒というものがないだけに、子どものときに歯の治療ができなければ成人後、ふつうの職に就く可能性はかなり閉ざされる(堤未果『ルポ 貧困大国アメリカⅡ
』岩波新書)。日本についても、面接のとき眼にみえる「ひどい歯」は、健康面でのマイナス点としてチェックされるに違いあるまい。費用のかかる歯の健康と美容は今日、働けるためにも必要なのだ。
ついでにいうと病院に行けないのは貧困や健康保険料未納のためだけでない。過労死・過労自殺の事例研究のなかで痛感したことだが、この日本では仕事が忙しすぎて働き手たちが休めず、とかく必要な通院を引き延ばしてしまうという事情もある。しかし、この点は今は措く。さしあたり上の文脈から思うに、およそ良質の社会とは、まずはすべての人びとがお金の心配なく必要な医療サービスを享受できるシステムがある社会にほかならない。
その点では、80年代の「サッチャー革命」の挑戦にも耐えぬいていくつかの修正を経ながらも、ともかくも基本的に患者負担なしのナショナルヘルスサービスを守っているイギリスは、やはり質の高い国ということができる。一方、同じアングロサクソンでも、アメリカでは今なお国民皆保険制度がない。国民の60%は民間医療保険会社と契約を結び、低所得者のためのメディケイド、高齢者のためのメディケアからなる公的保険制度の適用者は25%にすぎない。残り15%、4700万人は無保険者なのだ。もっとも保険会社に支払われる高額の保険料のかなりの部分は労働組合の交渉によって企業内福利施設として会社負担とされているけれども、中小企業や自営業者の場合はもっぱら自己負担である。しかも、マイケル・ムーアのドキュメント『シッコ
』(2007年)がよく伝えるように、医療保険会社はあくなき利潤追求の民間会社であって、保険金支出の節約を社員のノルマとさえみなして、あえて「持病あり」と審査して保険金の支払いを拒んだり、保険加入後に高額の治療が必要になった患者の契約を一方的に打ち切ったりすることを辞さない。医療サービスにもこのようなむきだしの市場原理が貫徹するアメリカは、とうてい質の高い国とはいえないのである。ちなみにここに例をあげるいとまはないが、もうひとつの大国、中国もまた、医療サービスの享受における格差の巨大さは今やアメリカ以上であるように思われる。
周知のように2010年3月、オバマ政権はようやく医療保険加入率を95%までに引き上げる医療保険改革を達成した。だが、それは、当初のマニフェストであった統一的な公的保険制度の確立を放棄し、むしろ民間保険会社への加入を国民に義務づける内容であった。不合理な保険料設定や既往症を理由とする保険加入拒否を禁止する、従業員の医療保険への資金拠出を事業主に義務づける、高額な医療保険には課税する・・・などが規定されたことは、従来の医療保険会社の横暴をチェックする上では大きな前進と評価できよう。しかし一方、従来のメディケア、メディケイドは医療費ののびを抑制するため「効率化」がはかられるという(朝日新聞2010.3.23)。あらゆる国民皆保険を「社会主義」とみなす「世論」がなお根づよい国アメリカでも、ここまでは来たとはいえ、医療をも利潤獲得の機会とする資本の意志を結局は規制できないアメリカでは、ここで留まるほかなかったというべきだろうか。
国営医療であれ医療保険であれ、国民の全階層に必要にして十分な医療サービスを保障するシステムの確立には、いうまでもなく財政的にも人的にも膨大な資源が求められる。それゆえ、望ましい医療のシステム論は、どうしても過剰医療の抑制を中心としたしかるべき資源配分論を不可欠とするだろう。しかし、医療はゆとりあるかぎり誰しもが最高のサービスを求めてやまないだけに、これは難しい議論になる。
この点では素人の私に創見があるわけではないけれども、イギリスでは、すべての患者は、救急の場合を除けばまず地元の診療所で「かかりつけの医師」(GP)の診察を受けねばならず、専門的な検査や治療が不可欠と診断される場合にのみ専門病院に送られる。統計ではGP受診者の2~5%のみがこうして病院を紹介されるという(武内和久/竹之内泰志『公平・無料・国営を貫く英国の医療改革
』集英社新書)。このGP制度がなければ、イギリスの医療はとても財政的に保たないだろう。
一方ではまともに診療を受けられない貧困層が増え、他方ではさしてさしせまった状態ではない、お金も時間もゆとりある高齢者などが、いささか乱暴にいえば「過剰」と思われる検査のために大病院の待合室を埋める──現在の日本ではそんな印象を受けもする。予想されるいくつかの困難を超えて、第一に、なにはともあれ未成年の医療を無料化すること、第二に、なんとかすべての地域を網羅してイギリスと類似の「ゲートキーパー」、GP制度を確立することが急務であろう。






