この映画を見て!
その2 2010年1月~3月(10.4.28記)
今年の冬から春にかけてみた映画について、日本映画の佳作ふたつを紹介することからはじめよう。ひとつは『ゴールデンスランバー 』(中村義洋)である。
周知のようにこの作品は、首相暗殺の犯人に仕立てられた宅配ドライバーの青年、青柳雅春(堺雅人)が、周到に証拠が捏造されマスコミも動員された包囲網をくぐって、整形手術は受けるもののついに逃げのびる物語である。彼の無実を信じて逃亡を助けるのは、大学時代のサークルの友人たち、「もと彼女」の主婦(竹内結子)、職場の同僚、ものごとを斜にみる風の連続殺人犯ややくざ風の入院患者、かつて青柳に助けられたことのあるアイドル女優(貫地谷しおり)、反骨の花火師親子など。日本では「まさか!」の思いがあるためか、伊坂幸太郎の原作もシナリオ(中村義洋)も、ストーリーは全体としてメルヘン風のタッチで綴られる。フィクションではなかったアメリカのフレームアップ、あのオズワルド事件を扱う映画『JFK
』(オリバー・ストーン)のようなリアルな重苦しさはない。かなり喜劇的な人物設定もあって、おもしろいけれども「軽い」作品である。
しかし、この映画から私たちは、大学時代のサークル(かつての「社研」とか「歴研」ではなく「ファーストフード研究会」!)の楽しさ、そのなかまの語らい、「昔、道があった/故郷へ帰る道が・・・」という美しいビートルズナンバーへの哀惜などが、そしてそうした体験のなかで培われた「構えない市民意識」が、国家の非情の陰謀に対しては一定、良識の抗いを用意するはずだという、ほのかなメッセージを受け取ることができよう。それゆえにこの作品は、ある暖かい余韻を残すのである。
もうひとつは、浅野いにおのコミックを原作とする『ソラニン』(三木孝浩)だ。空の狭い東京の下町に住む同窓生のカップル、フリーターの種田(高良健吾)とOLの芽衣子(宮崎あおい)。二人は平凡な日常生活に満たされずそれぞれに仕事を辞めてしまう。学生時代に情熱を注いだロックバンドにもういちど賭けてみたい。種田は「ソラニン」の一曲を書き上げ、芽衣子やかつてのなかまとともに、レコード会社に売り込もうと懸命になる。結果は芳しくなかった。そのうえ、芽衣子との愛の生活を大切にしようとフリーターに戻ろうと決心した種田は、その矢先、事故死してしまう。だが、ほどなく芽衣子は絶望から脱し、種田のギターを担ってヴォーカルにも挑戦し、ついに「ソラニン」の小さなコンサートを成功させる。あとどうなるかはわからない。芽衣子はしかし、「これからもこのなかまとともにいる」と思い定めて明るく、象徴的にも大きく空の広がる河堤を歩いてゆく・・・。
宮崎あおいの表情の陰影がすてきだ。最後のロック・コンサートの盛り上がりは、高齢の私にさえ若者たちの生きがい「祭」のよろこびを共有させ、心が弾む。とはいえ、この祝祭のあと、彼らにとってやはりなかまは同窓のロックグループに留まり、これからも続けられる実生活の「空」は狭いままなのだろうか。そう感じられるところがさびしく、私はもう少しそのあたりにこだわってゆきたい。
『ハートロッカー』の新しさ
話題を変える。すぐれた戦争映画の資格はなにか。a.敵のなかにも味方がいる/味方のなかにも敵がいる、b.戦争の悲惨はなによりも兵士たちの心の荒廃や狂気として現れる──そのいずれか、またはいずれもの視点を備えていることだと思う。実例は数知れないが、たとえば昨年ベストテンに加えた『セントアンナの奇跡 』はa.グループの典型であろう。そして今、話題作『ハートロッカー』(キャサリン・ビグロー)について語るならば、これは、国家と個人の間にコミュニティのゆくえまでも組み込んだヴェトナムものの秀作『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ)には及ばないものの、新しい視覚をもつb.グループの傑作ということができる。
イラク駐留米軍の大半は、通常の戦闘でではなく、誰が仕掛けたのかもわからない手製の爆弾で死傷するという。この映画の主人公、米軍爆発物処理班の班長ジェームズ(ジェレミー・レナー)は、ぶくぶくのぬいぐるみロボットにみえもする防御服をまとって、あたかも荒涼とした月面を行く宇宙飛行士のように爆弾に近づき、起爆装置や信管を注意ぶかく取り外す。表情はみえないが、恐怖にさいなまれているようにも、戦争の大義に殉じているようにもみえない。危険きわまりない作業(事実彼の前任者は爆発で死んでいる)が信じられないほどの大胆さ・平静さで遂行されてゆく。このようすをスクリーンでみる私たちは、ひりつく感覚のうちに、彼におけるこの恐怖の鈍磨こそがひとつの狂気の姿にほかならないと納得させられるのである。
映画の内容は実はそれにつきる。しかしこの作品は最後に、任務を終えて帰還したジェームズの、とくに冷たいわけでないのに、本当は彼の心の奥に潜んでいるはずの闇に立ち入ることのない妻との生活を点描したあと、彼が同じ任務に志願してまたイラクに赴く姿を描く。この映画のメッセージをみごとに示すラストシーンといえよう。思えばアメリカ映画は、これまで戦争で心に傷を負った兵士をいかに市民生活に迎えるかを真摯に描いてきたものだ。その結末は、第二次大戦後の『我等の生涯の最良の年
』(W・ワイラー)では明るく、ヴェトナム戦争後の『ディア・ハンター』では苦いものだったが、そうした心遣いは映画作家のひとつの大切なテーマだったのだ。だが、イラクまできたこの映画は、帰還兵士が安穏な市民社会にふたたび抱擁されることはもうむつかしいという、現代アメリカの悲劇を暗黙のうちに語っているかにみえる。
ちなみに周知のようにアカデミー賞は、ストーリーに新味がなく技術的に華麗なだけの『アバター』(J・キャメロン)を斥けて、この『ハート・ロッカー』を作品賞とした。そこにアメリカの映画人のなお衰えぬ気概をみることができる。
『カティンの森』の重い感動
最後に、今年の冬もっとも感銘を受けた映画として、アンジェイ・ワイダの『カティンの森』について語りたい。ここではしかし、背景をいくらか説明する必要がある。 1939年9月の独ソ不可侵条約のもとでポーランドを分割占領したソ連は、ソ連東部の三つの強制収容所に移送したポーランド軍将校の捕虜1万4500人を、40年4月はじめ、秘密警察・内部人民委員部の手で処刑する。現在のベラルーシ近辺のカティンの森では4400人が虐殺され埋められた。スターリンがこの蛮行を命じたのは、多くの知識人たちの処刑と同様に、将来予想されるポーランドの抵抗と再興の人材を抹殺するためだったという。
大国のはざまの国ポーランドの悲劇を象徴するこのカティンの森事件は、不可侵条約が破棄された43年春、その地に侵攻したナチスが遺体を発見し、ソ連による虐殺と喧伝する。だが、そこを奪還したソ連は44年1月、これはナチスの典型的な残虐行為と言い募る。このソ連の捏造はそして、戦後にソ連支配下に組み込まれたポーランド政府によっても長らく「公式見解」とされ、実に半世紀後ゴルバチョフによってソ連の行為と認められ謝罪が表明されるまで、真相を語ることは許されなかった。
A・ワイダ監督は長年、戦後にポーランドを支配したソ連の国策とそれに追随する「社会主義」政権のもとで抑圧されながら、それでも抵抗を放棄しなかった人びとの苦しみを鮮烈な映像としてきた。『地下水道
』(56年)、『灰とダイアモンド
』(58年)、『大理石の男
』(77年)など、映画史に記憶される名作群が直ちに想起されよう。そのワイダはまた、カティンの森で父親を喪った一人だったのだ。映画『カティンの森』は、そのほかならぬワイダが81歳にしてようやく満を持して発表した傑作である。
私はこのような歴史的な事情やテーマの意義のみによってこの作品を称揚するものではない。ストーリーは、時間的には1939~40年、戦争中の43年、戦後の40年の三時点を往還し、場所的には収容所、カティンの森、ドイツ占領下およびソ連支配下のクラクフに及ぶ。登場人物も、処刑された主人公の将校アンジェイとその妻アンナ、その母、その娘、その甥を中心にするとはいえ、やはり処刑された「大将」とその妻や娘、技師ピョトルの二人の妹、偶然に処刑をまぬかれて親ソ派の将校となるイェジ、そのほか点描される多くの関係者など多様性に満ちている。そのまことに重層的なストーリーのうちに虐殺の真相がついに明らかにされ、最後のシーンでは虐殺そのものも映像化されるけれども、この映画はなによりも、それら多様な人びとが戦中戦後の過酷な歴史のなかでどのように生きたかということへの、周到に目配りされた描写がすばらしいのである。身を賭してアンジェイの家族を救うソ連軍将校。ナチスにも戦後の政府にも求められた安易な証言を拒む毅然たる大将夫人に接し、真相解明の手がかりをアンナに残してみずからは死を選ぶイェジ。真相に眼を閉じ戦後の親ソ体制を面従腹背で生きのびるピョートルの上の娘イエナ・・・。しかし、私をもっとも感動させたのはやはり、戦中はナチスの、戦後はソ連とその追随者の圧政・弾圧・隠蔽に抵抗を続けた若い世代がやがて自由なポーランドをつくる、そこに込められたワイダの期待と確信であった。
ワルシャワ放棄の生き残りであるピョートルの下の娘アグネシュカは、どこまでも「(殺害者ではなく)犠牲者の傍らにいたいの」と、兄の記念碑をたてることにこだわり、従容として投獄される。レジスタンスに加わっていたアンジェイの甥タデウシュは、あの『灰とダイアモンド』の主人公のように戦後はソ連の支配に抗い続けるが、逃亡する彼を偶然に助けた大将の娘エヴァと心が通いあい、「僕たちはまた会う運命だ」と翌日も会う約束をしている。その直後、彼は官憲に追われて事故死する。にもかかわらずこの幻のデートはやがてきっと実現するだろう──そんな思いがこみあげてくる。
その他いくつか
すでに予定の紙数を超えているが、そのほかこの間にみたいくつかの佳作について、タイトルだけ記す。デンマークの対独レジスタンスの実相を描く『誰がため
』(オーレ・C・マセン)、スウェーデンの重厚なサスペンス『ミレニアム
』(ニールス・A・オフレブ)、ネルソン・マンデラのエピソードをテーマとするC・イーストウッドの『インビクタス
』などである。それぞれに見応えがある。邦画では、行定勲の『今度は愛妻家
』と『パレード』が勧められる。吉田修一原作の『パレード』は、楽しげに同居する若い男女の、本当は薄氷を踏むような関係をリアルに描いてひやりとさせる。
佳作ではあれ期待外れだったのは、山田洋次の『おとうと』である。ぐうたらな弟(笑福亭鶴瓶)をどこまでも支えるしっかり者の姉(吉永小百合)の物語。かつて山田洋次は、典型的には『家族 』(70年)、『幸福の黄色いハンカチ
』(77年)、『息子
』(91年)などの名作において、点描によって人物の状況を一挙に納得させることにすばらしい冴えを見せたものだ。「映像説得性」ともいうべきこのつよみは、93年の『学校
』あたりから希薄になったように思われるが、『おとうと』ではまったくそれがみられない。弟のやりきれないしんどさはすべて、鶴瓶のあの手この手の悪達者な語りにまかされているため、姉の心づくしにも本当の理解、洞察の光が感じられないのだ。鶴瓶にしゃべらせればいいというものではない。巨匠山田は衰えないでほしい。








