この映画を見て!



その4 2010年6月~7月(10.8.10記)

久しぶりにすぐれた時代劇──『必死剣 鳥刺し』

時代劇のなかに、現代に生きる私たちの心をうつような傑作は少ない。ストーリーの卓抜、人物造型の多様性、映像のダイナミズムなど、どこをとってもおもしろいとしか言えない黒澤明『七人の侍』(1954年)、がんじがらめの女性の生きがたさをぎりぎりとみつめる溝口健二の『西鶴一代女 』(52年)と『近松物語 』(54年)をさしあたり別格とすれば、「侍もの」では小林正樹の『切腹 』(62年)、今井正の『仇討 』(64年)くらいしか鮮明な記憶がない。おそらく、登場人物の運命を左右する武士の掟、町民や百姓の掟、封建的な身分制、そこで無条件に求められる忠誠心、殺陣の「作法」など、総じて時代的なしがらみというものがラディカルな批判の眼で、しかものっぴきならぬ圧力としてよほど丹念に描かれないかぎり、物語の動因をなす「しがらみ」が今ではとるにたりぬものと感じられるからである。たとえばばかばかしい冗談ながら、日本のサッカーチームは今「サムライジャパン」と呼ばれもするけれど、本当にサムライならばミスで大切な試合を敗北させた選手などはさしずめ切腹ものだろう。傑作が50年代、60年代に終わっているのもゆえなしとしない。「しがらみ」を与件とした有象無象の作品など、私は「肩のこらない娯楽」としても楽しめない。

そんななか、すぐれた現代劇『愛を乞うひと 』(98年)の平山秀幸による『必死剣 鳥刺し』は、久方ぶりにみる時代劇の逸品ということができる。

藤沢周平のご存知「海坂藩」の近習頭取、兼見三佐衛門(豊川悦司)は、愛妻を病で喪った空しさもあって、藩政の癌であった藩主の愛妾を刺殺する。死に場所を求めての行動であったが、意外にも兼見は、実力者の中老・津田民部(岸部一徳)の深慮遠謀によって一年蟄居のかたちで生かされ、ほどなくぼんくらな藩主の警護を命じられる。悪政にふける藩主とかねてから対立していたご別家、剣豪の帯屋隼人正(吉川晃司)がやがて藩主を襲うだろうと予測していた津田は、無双の使い手である兼見に帯屋を切らせたあと、「乱心」として兼見をも始末しようとしていたのだ。

物語の大半は、ひそかな慕情を秘めて兼見の身のまわりの世話をしながら庭を農地にして生計を助けもする亡妻の姪、里尾(池脇千鶴)との蟄居の日々が淡々と描かれる。東北の四季、つましい住居の内外を写す映像がとても美しい。時代劇にはめずらしい生活感もある。新しい任務に就いてからも、兼見の激しい情念は現代の「会社人間」のように胸にたたみ込まれており、里尾の愛にはついに応えるにしても、すべては静謐のうちに推移する。その静謐さが、クライマックス、帯屋が藩主を襲う日の殺陣のすさまじさと、兼見の運命の過酷さをみごとに際立たせている。



『パリ20区、僕たちのクラス』──生徒たちの自己表出と「国民教育」の限界

この盛夏に見た外国映画では、なによりも、ローラン・カンテ(監督&脚本)の『パリ20区、僕たちのクラス』を推したい。パリ下町の中学校、アフリカ系、アジア系など実にさまざまの国からの移民をふくむ24人のクラス。この映画は、このクラス1年間の国語(フランス語)の授業風景を「そのまま」描いている。主演の先生はみずからの体験にもとづく小説を発表したフランソワ・ベゴドー自身、生徒たちも本人たち自身。教室に複数のマイクと三台のカメラが持ち込まれ、ほとんどドキュメントと区別がつかぬまでの、教室の息づかいの聞こえるようなこの作品が生まれた。

フランソワ先生は、正しい言葉こそはすべての人が生きるに不可欠なコミュニケーションを可能にするものと信じて懸命に教える。けれども、総じて困難な生活条件──そうした背景はまったく描かれないけれども──にある移民や労働者階級の家庭から通う生徒たちは、教師の文法習得に賭ける信念をなかなか共有できないようだ。生徒たちはしかし、その距離感を沈黙や空虚な視線で示すのではなく、先生の説明や課題設定が納得できなければ、やりすごし、冗談、難癖、ふとした言葉尻をとらえての言いがかりなどをもって応酬する。教室はこうして頻繁な質問と発言、私語、笑いが弾ける場となる。先生もまたそこで引くことなく、なお執拗に語りかける。そこにこの作品のもつ、ふつうの「学校もの」には望めない比類ないおもしろさがある。

教員の経験をもつ私にはやはり、いろんな挫折はあっても学生たちがついには学びの意味を内面化するにいたる、そんな物語に「素直に感動したい」気持ちがどこかにある。だから「教育効果」が鼓吹されることなく、ふとした弾みで小さな暴力に奔ってしまったマリ出身の「問題児」を教師間の討論の末に放逐(他校への移籍)することで終わるこの映画には、複雑な感慨が残った。だが、これが本当かもしれない。この映画は実は、日本では信じられないほど多様な民族を擁する大国フランスの教育が「国民統合」をもたらしうる限界を示しているのだ。将来はおそらく言語の熟達だけではやってゆけないようなノンエリート労働の世界に入ってゆく生徒たちは、「国語」フランス語の文法などをマスターする意義にある距離感をもっている。それでいて彼ら、彼女らは、まじめな教師には言いがかりと感じられもする、生きいきとした自己表現・自己権限をためらわない。延々と続く教室のシーンに私たちを釘づけにするものは結局、「学校文化」になかなかなびこうとしないそんな10代の若者たちの可能性にほかならない。私たちの国の「底辺校」の教室のありようとくらべてもみたい。



そのほかいくつか

最後に、いつもながらくわしくはふれなかった佳作をいくつか列挙しておく。

洋画ではまず、中米ホンジュラスからメキシコを経てアメリカに不法入国しようとする少女と、暴力の支配する世界のなか、命を賭けて彼女を助ける若者の物語『闇の列車、光の旅』(キャリー・ジョージ・フクナガ)。これが初回という演出はなお粗いが、素直な感動を禁じえない。笑うことのなかった少女の最後の微笑が余韻を残す。

もうひとつは、ジム・シェリダンの『マイブラザー』。戦死の誤報のあと、過酷なアフガン体験で心を病んだサム(トビー・マクガイア)、その妻グレース(ナタリー・ポートマン)、グレースと心を通わせて留守中の兄一家を支える弟トミー(ジェイク・ギレンホール)、その三者の情愛と葛藤を描く。これも一種の「帰還兵もの」だが、ぐうたらとされていたトミーの温かさ(少し清潔すぎる感じはある)が心にしみる。「死者のみが戦争のゆくえを知る」というサムの最後の表白がなぜか印象的だ。

邦画では、成島出の『孤高のメス』が予想以上によかった。技能も人格も抜群の外科医の話はめずらしくないが、ここでは、その医師、当麻(堤真一)の働きによって労働の意義にめざめ、彼をひそかに愛して仕事に励み、年を経て過労死する中村看護師の視点からストーリーが進むところが新鮮である。個人的な愛に鈍感な当麻にいらいらさせられるほど、看護師を演じる夏川結衣の表情はゆたかな情感にあふれている。