この映画を見て!



その6 2010年10月~11月(10.11.24記)

自立に向かう棄てられた子どもたち──『冬の小鳥』『この道は母へと続く』

韓国映画『冬の小鳥』は、幼くして親に棄てられた子というそれだけで哀切なテーマを、どこまでもその子の眼を通して、その主体的な意識の成長を凝視して描く秀作である。 女性監督ウニー・ルコントみずからの実体験にもとづくストーリーという。

1970年代の韓国。9歳のジニ(キム・セロン)は、子連れの女性と再婚した父に棄てられてカトリック系の児童養護施設に送られる。ジニは大好きだった父のそんな処置が信じられず、施設の職員やなかまの配慮にかたくなに反抗を続ける。子どもたちは徐々に欧米の里親のもとへと施設を離れてゆくけれど、ジニはひたすら父の迎えを待ち、施設長にかけあって父の居所を調べさせたりもする。やっとできた親友が一人でアメリカへ去り、父の居所も不明とわかってからは、絶望のあまり死んだ小鳥の墓に自分を埋めようとさえする。だが、その孤独の底から、ついにジニは親に棄てられた事実をはっきりと自覚し、頭(こうべ)をあげてフランスの里親のもとへひとり旅立つのである。

物語は、主として冬、荒涼たるソウル郊外の施設内でのジニの職員や仲間たちとの日常生活に終始し、やがてジニも泣き叫んだりすることはなくなる。ジニの孤絶の描写は淡々としていながら、全編には切実な雰囲気がはりつめており、私はまじろぎもできなかった。映画そのものは、ジニ、幸あれ!というメッセージだけが心に残って終わるけれど、実際に同じ年頃にフランス人の養子となり、フランスで育ったルコント監督のこの作品が、映画を共通言語としてフランスと韓国のチームワークで世に贈られたという事実は、まことに私たちを暖かく癒すエピローグということができよう。

ちなみに『冬の小鳥』と同じテーマ・同じ視点の傑作として、05年のロシア映画『この道は母へとつづく』(アンドレイ・クラチューク)も必見である。棄てられてモスクワ郊外の、これは人身売買的に子どもを里親に送る施設に収容された少年(コ-リャ・スピリドノフ)が、逃亡してついに母をみつけだす物語だが、ここでは、私利のために少年を捜査する施設長ややくざ風の用心棒、身を張って少年を助ける売春アルバイト・収容なかまの女性などが登場し、少年の母捜しも危険や冒険の連続で、この映画のほうが素朴な意味でおもしろいかもしれない。といっても、これはたんに「母を尋ねて三千里」の童話ではない。ここには現代ロシアの市場主義化のもたらす万事すさまじい風景があざやかに映像化されていて、やはり感銘ぶかい作品なのである。


アメリカの暗鬱な刑事もの『クロッシング』ほか

もうひとつ、今期に予想以上によかったのは、『クロッシング』(アントン・フークワ)である。主人公は、それだけで「なにかある」と思わせるニューヨークはブロンクス警察署の刑事たち三人、定年間際ですべてに意欲を失い、万事「見て見ぬふり」をしようとするエディ(リチャード・ギア)、子だくさんで病気の妻を抱え、生活のため押収した麻薬売買の収益をくすねようとするサル(イーサン・ホーク)、麻薬潜入捜査の鬱屈から昇進による配置換えを切望するタンゴ(ドン・チードル)。この三人が、込み入ったストーリーの末に、思いを果たせずなかば自暴自棄のまま、それぞれ別の思惑で麻薬組織のあるボロアパートに赴き、クロッシング(交差)する。幕切れは二人の頓死があって暗鬱このうえない。

アメリカの警官の腐敗を描く佳作は、シドニー・ルメットの『セルピコ』など数多いが、この映画は、犯罪のデパートのようなブロンクス地域、銃撃が当り前のことになっている捜査、部下の犠牲を顧みない上層部の狡知、警察の「成果主義」、近年めざましい警官の労働条件の悪化などの背景が描かれていて、三人の願いがいかにも危ういようすがよくわかる。それゆえ、この映画ははじめから観客をなにかいたたまれないような感じに追い込む、一種の異様な緊張と不安に満ちている。

今期の洋画では、このほか韓国の『義兄弟』(チャン・フン)と『私の可愛い人 シェリ(スティーヴン・フリアーズ)を佳作と評価することができる。ストーリーにはそれぞれある不満が残るけれど、主演俳優がいい。前者ではあの童顔のソン・ガンホ、後者では、調教のつもりだった年下の美青年に次第におぼれてゆくココット(高級娼婦)を演じるミッシェル・ファイファー。私は以前『アイ・アム・サム』で個性強烈な弁護士役だった彼女に刮目したが、今回もまた魅せられた次第である。


『十三人の刺客』のおかしいところ

最後に、邦画の大作『十三人の刺客』(三池崇史)についていくらか論じておきたい。周知のように一定評価の高い前作のリメークである本作品は、将軍の異腹の弟で暴虐このうえない明石藩主の松平斉韶(俳優としてはでくのぼうの稲垣吾郎)を、老中の密命を受けた御目付役の島田新左衛門(役所広司)が、彼の心酔者や死に場所を求める12人の剣客とともに、参勤交代の帰路、明石藩士300余人に守られた斉韶を要塞にしつらえた落合宿に誘い込んで討ちとるというあらすじである。

最後の決戦に至るまでの経緯は重厚なタッチで描かれる。しかし、興行のよびものとされる50分にもわたる殺戮場面はほとんど漫画だ。島田側ははじめ仕掛けと奇略をもって高見から弓矢で街道の明石側を襲う。そこはおもしろい。だが、明石藩側の知将(市川正親)が事態を予測していながらなんら飛び道具を用意していないことが不思議であるばかりか、ほどなく島田らは、もうこんな茶番はやめだ、とか宣言して、街道に飛び込み「切って、切って、切りまくる」。それも13人が一丸となって斉韶に迫るのではなく、それぞれ別個に殺陣を展開し、そして10人は斃れるとはいえ、ついにすべての家臣を倒して、最後におもむろに殿様の首を取るのである。明石藩側は一人の戦線逃亡もなく300人余(前作では確か58人!)全員が死ぬことになる。いくら剣豪でもあまりに非現実的な念願成就である。それになによりも、目的は斉韶ひとりの暗殺だったはずだ。大量殺戮の無益さを顧みないこのような戦いは、見ているうちにしらける。島田の大仰な台詞こそあれ、それはなんの悲愴感も、武士は悲しいものという感慨も残さないのである。

セールスポイントである戦闘の方法の必然性を納得できない──その致命的な一点ゆえに、この力のこもった作品は結局、掛け値なしの駄作というべきS・スタローン監督・主演の『エクスペンダブルズ』と選ぶところはない。『十三人の刺客』はベネチア映画祭に出品されたという。受賞しなかったのも当然であろう。外国の観客は内心、日本の武士ってこんなもの?・・・と、苦笑を禁じえなかったに違いない。