この映画を見て!



その5 2010年8月~9月(10.10.2記)

『セラフィーヌの庭』の地味な輝き

記録的な猛暑に襲われたこの盛夏から晩夏にかけて、私の知るかぎり外国映画は総じて不作だったように思う。アルゼンチンの『瞳の奥の秘密』(ファン・ホセ・カンパネラ)をはじめとして、期待はずれの、いまひとつものたりない作品が多かった。

 しかし『セラフィーヌの庭』(マルタン・プロヴォスト)は印象に残った。フランスの地方都市の貧しい家政婦、信仰あつく寡黙なおばさんセラフィーヌ(ヨランド・モロー)は、木々や花々と心を通わせながらひそかに色鮮やかな静物画を書き続けていたが、著名なドイツ人画商W・ウーデ(ウルリッヒ・トゥクール)がひとりその才能に注目し、第一次大戦中の中断はあれ、たゆまず彼女の画作を支える。だが、画家としての名声や贅沢な生活のできる収入を求めるようになった彼女は、大恐慌によるウーデの苦境などを理解できず、焦慮と鬱屈の末、次第に狂いに陥ってゆく。セラフィーヌのはじめの無愛想と怯懦、認められるにつれて芽生える自負と自我、不格好なウェディングドレス姿で「神との結婚」に急ぐ狂気、病院の庭でなじみの木と語らっていやされるラストシーン・・・。そのすべての場面でヨランド・モローは鈍く光って、私たちをいいようのないかなしみに誘うのである。



『キャタピラー』──若松孝二の最高傑作

一方、邦画では少なくとも二本の傑作があった。ひとつは若松孝二の『キャタピラー』、いまひとつは、あの『フラガール 』の監督、李相日の『悪人』である。

鶴彬の川柳にいう、「手と足をもいだ丸太にしてかえし」。『キャタピラー』は、満州の女を強姦して殺し、その折に建物が焼け崩れたため、両手足を失い口もきけない芋虫(キャタピラー)になり果てながら、軍功めざましい「軍神」として勲章を与えられて故郷の村に帰還した久蔵(大西信満)を、軍国の村の圧力のもとで妻シゲ子(寺島しのぶ)がひたすらケアするすさまじい日々を描く。久蔵は食欲と性欲だけは旺盛で、乏しい食物を妻の分までむさぼり、日夜シゲ子の躰を求める。その悲しくもおかしい浅ましさに耐える鬱屈から、シゲ子は意地悪く、「軍神様ってなによ!」「昔は子どもができないと私を殴っていたのに、今はできなくて残念ね」と毒づき、晒し者にするかのように、久蔵に勲章つきの軍服を着せてリアカーに乗せ、農作業に同行させたりする。だが、シゲ子がようやく憐れみのうちに「食べて、寐て、食べて、寐て、二人で生きてゆこう、それでいいじゃない・・・」と感じるようになったとき、久蔵は自分の満州での悪行を、その報いとして、それまで支配してきた妻さえ言いなりにできないような芋虫になってしまった軌跡を顧みはじめるのだ。妻に挑まれて久蔵は不能になる。シゲ子はいらだっていっそう辛辣にもなる。そして終戦の日、久蔵は必死のあがきをもってみずからに刻印された欺瞞の栄光にけじめをつける・・・。「軍神」とその妻のこうした道行きは、綿密なシナリオと寺島しのぶの入魂の演技によって生々しく描かれている。それまでの若松作品ではさほどではなかった精緻な演出の、これは若松孝二最高の作品といえよう。

この傑出した反戦・反軍国主義の作品に対する私の唯一の不満は、視聴覚教育よろしく頻繁にはさまれる軍人勅諭、大本営発表、原爆投下の映像、天皇のご真影や玉音放送などが、メッセージの過剰を感じさせることだ。この時代・この戦時体制の残酷や欺瞞を描くには、シゲ子の切ない叫びや表情や身のこなしだけで十分なのだ。



『悪人』──人がかけがえのない人に出あうということ

悪人』は、みずからも脚色に加わっている吉田修一の原作によってきちんとしたストーリーとうなずきうる人物像がすでに与えられているだけに、映画化そのものの功績ははかりがたいけれど、ともかく疑いなく、現代日本の邦画のうち屈指の傑作ということができる。『悪人』は近年の日本映画の佳作に多い「癒し系」の域を超えている。見終わったとき心に沈殿する感動の重さはなまなかのものではない。

すでに広く知られているあらすじをくわしく紹介する必要はないだろう。長崎近くの漁村で土木作業員として鬱屈の日々を送っていた主人公の祐一(妻夫木聡)は、出会い系サイトを通じての(報酬を支払う)セックスフレンド、福岡の保険会社OLの佳乃(満島ひかり)を、彼女が非情のプレイボーイ学生の圭吾(岡田将生)にふられて邪険に車外に突き落とされたことのはずみから殺してしまう。その思いがけない犯罪の直後、祐一はやはり出会い系サイトによって佐賀の国道沿いの紳士服店で働きながら孤独にさいなまれていたい光代(深津絵理)と会った。そして二人ははじめて寄り添うことのできるかけがえのない「人に出会った」と感じて、逃避行をともにすることになる。愛を知ることによって祐一は、あらためて佳乃を殺したこと、そして光代との出会いの遅すぎたことの痛恨にさいなまれるけれど、逮捕の迫ったとき、逃亡を勧めた光代が罪を問われずに生きてゆけるように、あえて「悪人」を装った。二人の心にはしかし、逃亡先の灯台からともに見た夕日の輝きが消えることはない・・・。

祐一の祖母(樹木希林)、佳乃の父(柄本明)も含めて、すべての人物が、徹底してリアルな現状認識があってはじめて保障される存在感をもって息づいている。すぐれたドラマの資格ともいうべきディテールの説得性は比類ない。おそらくはただひとり嫌悪感さえ覚えさせる圭吾をのぞけば、ゆきどまり感が凝縮された祐一の鬱屈も、いつも一人だった光代の骨を噛む孤絶も、それゆえに二人がなにものかを装うことなく惹かれあう理由も、同僚に「肉体労働系の」祐一とではなく「旅館の跡継ぎになる」圭吾とつきあっていると装う、軽薄な佳乃の階層意識や上昇志向も、すべてが納得でき、すべての人がいとおしい気持ちがこみ上げてくる。真に糾弾すべき者として圭吾を追いつめる佳乃の父は「あんた、大切な人はおるね?・・・今は、大切な人もおらん人間が多すぎる。自分には失う者がないち思い込んで、それでつよくなった気になっとう」と言う。この原作と映画は、現代日本の名もない人びとの生きる環境をたじろがず凝視することを通じて、いま人が人に本当に出あうことの難しさと、それだけにそれを求める思いの切実さを鮮やかに描いている。

原作は、すでに本サイト「読書ノート その1」で書いたように私のイチオシの小説であるだけに、映画化で期待が裏切られなかったことがうれしい。出演者もよかった。二枚目・妻夫木聡のやつしようも、この出会いにすべてを賭ける地味なアラフォーになる深津絵理の懸命さもみごとだった。それにある意味でいやな女を演じる満島ひかりは、これまで知らなかったが、本当に才能ある女優さんだと思った。