この映画を見て!
その9 2011年3月~4月(11.4.22記)
『英国王のスピーチ』──王様の吃音という問題を超えて
待ち遠しかった陽春がようやく訪れた今日この頃、なお大震災以来の憂鬱にとらわれながらも、映画ファンの性(さが)として、3月末から避難滞在していた福島勤務の次男を誘って、たびたび劇場に足を運んだ。むろんどの作品も佳作だ。『冷たい熱帯魚』(園子温)には尋常ならざるグロテスクな物語の魅力がある。『トゥルー・グリット』(ジョエル&イーサン・コーエン)ではヒロインの凜とした勇気が爽やかだった。中国の『再生の朝に ―ある裁判官の選択―』(リュ・ジェ)は、あまりにも地味で「華」に乏しいものの、静かな感銘は贈ってくれる。また実話だという『ザ・ファイター』(デヴィッド・O・ラッセル)も、母(メリッサ・レオ)と兄(クリスチャン・ベール)へのどうしようもない愛憎をついにはみずからの成長の糧に転化してゆくボクサー(マーク・ウォルバーグ)を活写して見応えがあった。とはいえ、これらはすべてそれなりの水準作ではあっても、本欄の基準では、くわしい紹介に値するほどではない。
その点では、今回やはり推奨すべきは、少し前にみた評判の『英国王のスピーチ』(トム・フーバー)であろう。周知のように、これは吃音のためスピーチが大の苦手であった内気な英国王ジョージ6世(コリン・ファース)が、オーストラリア人──イギリスの上流社会では低くみられる国籍──のうえ無資格の言語セラピスト、ライオネル(ジェフリー・ラッシュ)の指導によって、ナチスに対する闘いを国民に呼びかける堂々たる演説をついにやりぬくまでの物語である。ライオネルは、ジョージの言語障害の根因が、個性を無視したきびしい帝王学の家庭教育によって植えつけられた彼のコンプレックスにあることを突きとめ、技術的な指導を超えて、自分自身に立ち返るよう根気よく王に働きかける。その歯に衣を着せぬ指摘に誇りを傷つけられてなんども反発をくりかえしたジョージも、結局はライオネルを真の友人と気づき、まっすぐに心の内を話せるようになってゆく。それぞれの場面は、すぐれた演劇に似て、直言の緊迫感と、両者の苦闘が醸し出す思いがけぬユーモアに満ちている。
このストーリーを知ったとき、私はアカデミー作品賞にしては歴代の名作にくらべてなんて規模の小さいストーリーだろう、王の吃音など所詮たいした問題でもあるまいにと、はじめは食指が動かなかった。いまは不明を恥じたい。ここには、一王家のエピソードを超えて、およそ人間のコミュニケーションにとってなにが大切かを顧みさせる含意がある。映画づくりというものの広い可能性をみる思いさえする。
それにしても、ヘレン・ミレンがエリザベス女王に扮した2006年の『クィーン』(スティーヴン・フリアーズ)の場合もそうだが、このような映画の製作を許す、少なくとも妨げないイギリス王室の寛容さには驚かざるをえない。日本の皇室ではとても考えられない対応であろう。かつてエジプトを追われたファルーク王は語ったものだ、地球上で生き残りうる王はトランプのキングとイギリス国王のみ、と。
『わたしを離さないで』──過酷な宿命の内なるみずみずしさ
もうひとつ、映画のもつフロンティアの広さを痛感させた最新作は、名作『日の名残り 』(ジェームズ・アイヴォリー)と原作者(カズオ・イシグロ)を同じくする作品『わたしを離さないで
』(マーク・ロマネク)である。
私の映画紹介は、ストーリーの説得性を重視することが多いゆえに、ときにネタバレになってしまうけれど、この映画については物語の決定的に重要な設定を伏せたままにしたい。18歳まではマナーハウス風の寄宿学校「ヘールシャム」で、成人後は農村のコテージで生活を共にしたキャシー(キャリー・マリガン)、トミー(アンドリュー・ガーフィルド)、ルース(キーラ・ナイトレイ)。隔離されて「大切に」育てられたこの三人は、他のなかまとともに、謎めいて両親も市民権もなく、しかも「難病」のゆえにではなく、国家に課せられたある過酷な使命によって、30歳くらいまでしか生きられない。だからこれは一種のSFにほかならないけれど、物語の舞台は不思議にも1960年代から90年代半ばのイギリスの美しい田園地方なのである。
ストーリー自体は、31歳になったヒロイン・キャシーの回想──トミーへの初恋、親友ルースの介入による失恋、介護士としての12年の自立、三人の再会、そして生涯の恋の儚い成就と避けがたい別れにつきる。「過酷な使命」のために、ルースは従容として、ついでトミーも介護のキャシーに見守られて微笑みながら死んでゆく。いずれも静かな死の受容であり、ここには他のSF近未来ものにみる反抗はない。そしていま、同じような死が予定されたキャシーは、短くも人を愛する歓びを知った生の軌跡をいとおしみ、どこまでも静謐に宿命を甘受する心がふと揺らぐのを覚える・・・。
リアルタッチで描かれる非現実的な物語。このような映画がなぜじんじんと心に沁みるのか自分でもわからないくらいだ。原作者はあるいは、この長寿社会を犠牲的に支える「市民でない一階層」・ある人間素材が存在しうるものと想定して、キャシーらを創造したのだろうか。だが、「架空の人びと」にしては、この三人の心情は、その陰影ゆたかな言葉と表情は、あまりにみづみづしい。とくに天使のようなやさしさを備えながらも、過酷な状況をきっぱりとみつめるキャシー役のキャリー・マリガンがすばらしい。彼女の子役(イゾベル・メイク=スモール)もかなしいほどいい。死を目前にして、かつて嫉妬から二人の間を割いたことを悔い、残された日々を生きるようにと長年の恋の成就を励ます、そのルースを演じるキーラ・ナイトレイも印象的である。そのくだり、再会した三人が破船の打ち上げられた海岸で語る沈んだ色調のシーンは比類なく美しく、忘れられない。映画の感銘は理屈ではないとつくづく思う次第である。
『眼には眼を』の現代性
最後に、旅行したシリアへの関心からDVDで再び見た57年のフランス映画『眼には眼を』(アンドレ・カイヤット)にふれておきたい。フランス人医師(クルト・ユルゲンス)を、彼が時間外で診療しなかったために身重の妻を亡くしたアラブ人ボルタク(フォルコ・ルリ)が、医師を巧みに荒涼のシリア砂漠に誘い出し、みずからも身を捨てて死への彷徨に突き放す物語である。それなりに悔いる良心をもちあわせているだけにどうしようもなく死の砂漠に導かれてゆくけれど、最後にはむなしいながらメスをふるって反撃に出る医師と、理不尽なまでに彼に復讐を遂げようとするボルタクとの関係は、西欧とアラブの800年もの対立が沈殿させた相互理解の途方もない困難を象徴しているかにみえる。カイヤットによってみごとに映像化されたこの関係のやりきれなさは、思えば、半世紀以上を経た今もなお私たちのものにほかならない。








