この映画を見て!



その10 2011年5月~6月(11.6.9記)

『マイ・バックページ』ほか──ふたつの社会派作品にみる生活感の有無

今の日本映画は、佳作にしてもいわゆる「癒し系」が多く、なにか書きたくなるような濃厚なこくのある作品が少ない。テーマの上で関心を惹く『マイ・バック・ページ』( 山下敏広)にもやはり物足りなさが残った。

原作は全共闘運動解体期の苦い青春をふりかえる川本三郎の自伝風の作品。当時、同世代の運動を傍観できず、また特ダネもほしかった「東都ジャーナル」の記者沢田(妻夫木聡)は、「赤邦軍」リーダー梅山(松山ケンイチ)に内密に接触、このセクトによる71年の朝霞駐屯地襲撃・自衛官殺害事件について証拠と談話を得ながら、情報源秘匿の原則に殉じて事件に連座することになる。「安田講堂以後」に登場した梅山は、左翼テロではじめて「本物の活動家」になると考えるだけで明確な変革志向などはなく、しかも行動の責任は尊敬する京都の前園(竹本信広=滝田修のこと)に負わせ、現場の危険な任務はすべて部下にさせるという度しがたい「闘士」である(ドストエフスキー的「悪霊」の域には達していないEが、このくさい人物像を松山ケンイチはよく演じてはいる)。沢田は要するに利用されただけだ。全編、この直後の連合赤軍にも通じる、解体期全共闘運動の言説のいいようのない空しさを印象づけられる。

この作品の危うい意義は、失職した沢田が最後に、かつてルポのため潜入した山谷の、今は飲み屋を営む知己に巡り会って涙を流すシーンにある。その悔恨は、すでに梅山に裏切られた口惜しさではなく、自分をふくむ同世代の「造反」思想が生活者の感覚というものをまったく顧みなかったことへの遅すぎた気づきにほかならない。

私はまた、この物語に登場する女性たちの主体性の欠如にもうんざりせざるをえない。当時の「革命」思想のもつ体質の反映だろうか。そういえば、その後生きいきと台頭するウーマンリブは、バリケードの内側でも明瞭だった女性差別の直視を母胎とするものだった。若い世代のスタッフならば、ここにも注目してほしかったと思う。


社会の構造的な問題を正面から扱う日本映画が衰退して久しいけれど、そのほぼ最後期の85年には、ご存知だろうか、『生きてるうちが花なのよ~死んだらそれまでよ党宣言 』(脚本とともに森崎東)という傑作がみられる。名古屋港近くの沖縄出身者の界隈と福井の美浜原発を舞台とする濃厚な物語である。登場する人びとは、沖縄の反基地運動崩れの原発ジプシー(原田芳雄)、旅回りのストリッパー(倍賞美津子)、落ちこぼれの高校生、フィリッピンから出稼ぎに来た少女、美浜で働くサービス職下層の女たち、電力会社の手先であるやくざや悪徳刑事・・・。それだけでも、これがさまざまの差別を組み込んだ日本の社会構造に切り込もうとした作品であることがすぐわかるだろう。複雑な物語の展開のうちにしがない人びとは連帯・協力し、主人公ふたりは最後に過激な、しかし「それもあり」と感じさせる抗いの行動にいたる。

古いビデオのストックを探してこれを再びみたのは、原発下請作業員のイメージを新にするためであったが、ここに描かれている差別の諸問題は今なお基本的に私たちのものだ。この映画はいささか荒削りながら、その平明で美しい思想の言葉は、『マイ・バック・ページ』などにはみられない庶民生活の現実認識に裏打ちされているだけに、鮮明なメッセージ性を失っていない。日本にも80年代半ばにはまだこんな映画、こんな「党宣言」があったのだと、ある哀惜の思いにとらわれもする。


『戦火のナージャ』『悲しみのミルク』──過酷な歴史を凝視して

一方、外国映画ではこの間、過酷な歴史の体験が凝視されているゆえに、登場人物に生活感や存在感が刻まれている、いいかえればその言動にどうしようもない説得性があるような、いくつかのすぐれた作品を見ることができた。その代表作は、スターリン統治下、逃走して戦場を彷徨する政治犯と、従軍看護婦として彼を探し求めるその娘の試練を描く『戦火のナージャ 』(主演とともにニキータ・ミハルコフ)であろう。ここに描かれるナチスおよびソ連軍の非道・非情はグロテスクなまでにすさまじく、その描写の迫力だけでも、これは近年の戦争映画の白眉ということができる。しかし、この作品は、94年の『太陽に灼かれて 』、次作未公開の『要塞』の間に位置する中間の作品であり、まことに感動的なラストシーンながら物語そのものは未完に終わる。この「スターリン批判三部作」が完結した後にあらためて紹介することにしよう。


そこで今回、特筆したいのは『悲しみのミルク』(クラウディア・リョサ)である。

ペルーの大都市のスラムに叔父一家とともに住むインディオの若い女性ファウスタ(マガリ・ソリエル)は、20年ほど前、左翼ゲリラに夫を惨殺されたうえ妊娠の身をレイプされて心のバランスも失い、今はすさまじい体験を小唄で伝えるだけの瀕死の母を看取っている。母乳を通じてその母のトラウマを身に深く受け継いでいる、そう信じ込んでいる彼女は、ひとりで街を歩けないほどの対人恐怖症で、とくに男が怖い。彼女はレイプの恐怖からなんと膣内にジャガイモを押し込んでいるのだ。

彼女はしかし、母の死後、その遺体を故郷に運ぶ費用を稼ぐため白人女性の裕福なピアニストのメイドになり、その家の花を育てるやさしい庭師(エフラン・ソリス)とかすかに心を通わせはじめもする。一方、スランプ気味のピアニストは寡黙なファウスタがそれだけは口ずさむ母譲りの小唄の美しい旋律に気づき、唄う報酬に一粒ごとの真珠を約束する。しかし、そのメロディを盗んで成功を収めたピアニストは、その剽窃を隠すためにか、成功を喜ぶファウスタを容赦なく放り出すのだ・・・。だが、そのあと物語は急展開し、ファウスタは庭師に助けられて大きく跳ぶ。美しいラストシーン。やがて花開くジャガイモの鉢がそっと彼女に届けられる。

女性監督のクラウディア・リョサ(シナリオも彼女自身のもの)は、自国の過酷な現代史が人びとの身に刻んだトラウマの容易ならざる深刻さをたじろがずにみつめ、若い世代の女性がそれでもそこからみずからを解き放ってゆくプロセスを、多弁な語りもない緻密なストーリー展開のうちに描いている。すぐれた物語の特徴である、登場人物の始めと終わりの変化が鮮やかだ。そこに新しい時代に託された希望がある。副次的には、叔父一家の婚礼を音楽やダンスで彩るインディオ文化の紹介も新鮮であり、そのインディオに対する白人の差別意識の描写も興味ぶかい。ちなみに監督は、2010年にノーベル文学賞を受けた反独裁の立場に立つ小説家、政治家、マリオ・バルカス・リョサの姪であるという。

最後に簡単ながら、『4月の涙』(アク・ロウビミエス)も紹介しておきたい。ロシア革命時のフィンランドを舞台に、劣勢の赤軍リーダーの女性と、追いつめる白軍の一将校との身を賭した愛を描く感銘ぶかい作品である。