この映画を見て!
その12 2011年9月~10月(11.11.9記)
「おもしろい映画」・「いい映画」いくつか
どんなに繁忙でも映画はやめられない。この秋にも、テレビで再会した古い名作を除いて映画館で観たものに限っても、いくつかの語るべき作品に出会うことができた。 サスペンスに満ちて「おもしろい」作品としては、例えば、ユダヤ人画商が機略をつくしてミケランジェロのデッサンをナチスから守る『ミケランジェロの暗号』(ウォルフガング・ムルンベルガー)、あたかも被抑圧者の叛乱のアナロジーのような『猿の惑星 創世記』(ルパート・ワイアッット)、あまりに非情に扱われたメイドが傲慢な大ブルジョワ一家に身を賭して復讐を遂げる『ハウスメイド』(イム・サンス)などがあげられる。抑圧された者が反撃に転じる物語が私は好きなようである。
「いい映画」として推したいのは例えば、デブラ・グラニック『ウィンターズ・ボーン』。舞台になるアメリカの寒村の状況がやや特殊にすぎて人びとの言動に対する私たちの納得が少し間遠になるという感じはあれ、幼い弟妹と鬱病の母を背負って生活のために闘う少女17歳(ジェニファー・ローレンス)のはりつめた気力が心をうつ。また、老境の新藤兼人が「これだけは残したい」という感じで、構想・脚本・演出のすべてを担った『一枚のハガキ』。周知のように、生き残った復員兵(豊川悦司)が戦友の妻(大竹しのぶ)を訪れ、葛藤を経て彼女とともに山村の農業でようやく「戦後」を生きはじめる物語だ。若松孝二の『キャタピラー』ほどの衝撃はないけれど、それだけにこのような物語にはおそらくかなりの普遍性があると思われ、しかも手練れの脚本の主な語りは名優大竹しのぶのもの。予想どおりの展開ながら平板に堕さず、さすがに深い味わいがある。
『ペーパーバード 幸せは翼にのって』──文字どおり笑って泣いて
とはいえ、今回はさらに、したたかに感動させられた秀作二つを紹介しよう。ひとつは『ペーパーバード──幸せは翼にのって』(エミリオ・アラゴン)である。
スペインの内戦時、共和制下の街に対する爆撃(介入したナチスの?)で妻と息子を失った即興喜劇役者のホルヘ(イマノル・アリアス)は、レジスタンスの地下活動の一年後、勝利した独裁者フランコ治下のマドリッドの昔の劇団に戻り、かつての相棒エンリケ(リュイス・オマール)、役者になりたいと縋ってくる孤児ミゲル(ロジェ・プリンセブ)と暮らしはじめる。ストーリーは、ひどい貧窮のなかでの地方公演、まことにしがないさまざまの芸人たちの協同作業、フランコ軍将校の検閲、スパイの潜入・・・などが続く波乱の体験の内に、三人の絆が揺るぎなくなってゆく過程をじっくり描いている。もっとも妻子を殺された怨みを忘れられないホルヘは、なお昂然たるあらがいの立場を唄って当局ににらまれ、苦労人でやさしいのエンリケまで拷問に巻き込んだりもするけれども。一方、ようやく見つかったミゲルの母は、内戦で夫を失って以来心を病んでしまっていた。しかしホルヘは、放心の彼女にミゲルを役者に育てると約束する。この病院の場面はじんと心に沁みる。それまで希望というものを自分に禁じてきたホルヘは、ここでついにミゲルの父として生き直す決心をするのだ。
他方、劇団がフランコの前で公演するという不思議な(不思議ではないことはやがてわかるのだが)企画をめぐって立場の微妙な人びとの思惑が錯綜し、危機が迫って、3人はついにアルゼンチンに脱出しようとする。だが、間一髪、遠ざかる列車で「お父さんが・・・」と叫ぶミゲルの眼前でホルヘは撃たれてしまう・・・。
それからおよそ60年後、マドリッドの大劇場で、役者として大成した老境のミゲルが、ホルヘの持ち歌だった「フランコとは暮らせない」を歌う。いつしか幻のうちに、客席にはかつてのなかまの顔ぶれ、舞台にはホルヘ、エンリケ、そして子どものミゲル。映画っていい! 笑い泣きしてしまうのはこんなときである。
『やがて来たる者へ』──殺戮の彼方に届く少女のまなざし
もうひとつ、なんともともすばらしかったのは、ジョルジュ・ディリッティ(演出・脚本・原案)のイタリア映画『やがて来たる者へ』である。
第二次大戦末期のボローニャ近辺の山村。農民たちの静かな生活に、支配者ナチスドイツおよびファシストと森から出没するパルティザンの闘いが濃い影を落としていた。三世代の大家族みんなに囲まれて育つ8歳の少女マルティーナ(グレタ・ズッケリ・モンタナーリ)は、生まれたばかりの弟が死んだショックから言葉を失っているが、その明眸に、卵などを買いに来る総じて紳士的なドイツ兵と、慈しみぶかい父(クラウディオ・カサデーィオ)や母(マヤ・サンサ)や叔母(アルバ・ロルヴァケル)がひそかに肩入れしている愛国のバルティザンとの殺し合いのシーンが焼きついてゆく。この映画の視座はマルティナという一少女の眼だ。彼女にとって戦争は、とくに前半で哀惜をこめてじっくり描かれる家族の団欒、ワイン、パン、籠編み、家畜の世話・・・からなる農民たちの伝統の生活にとって徹底して外在的な出来事であり、なぜ殺し合わねばならないのかわからないのである。
けれども、後半の44年秋、ドイツ軍は南から迫り来る連合軍に備えて、またレジスタンスへの報復のために、7日間にわたって多数の女性や子どもをふくむ住民771名を虐殺する。この史上有名な「マルサボットの虐殺」の酸鼻をきわめる経緯が、映画後半の物語だ。マルティナはあらたに弟を産み落としたばかりの母、必死で家族を守ろうとした父をふくむ愛する人びとをことごとく失ってしまう。ちなみにやさしく美しい叔母は、いったん撃たれたあと、グロテスクにも「妻に似ている」という理由でドイツの軍医に救われるけれど、その軍医が容赦なく子どもを射殺するという酷薄さにふれて、自分を丁寧に手当てする軍医を刺したあと兵士に命を奪われるに至る。そんな設定も映画にふくらみを与えている。そしてマルティナはといえば、監督はドキュメント畑の人というけれど、なんというすぐれた構想のストーリーだろうか、奇跡的に生き延びた彼女は、勇気と機転をもって赤ん坊の弟を森へ救い出すのだ。
こんなに感動的なラストシーンはめったにない──マルティナは誰もいなくなった家の前で赤ん坊を抱いてあやしている。彼女の唇から子守歌風の歌が洩れ、クレジットタイトルに続く。「やがて来たる者」に伝えたいこと、伝えなければならないことが心に沈殿したとき、マルティナは言葉を取り戻したのだ、こうして彼女は敵vs.味方の単純な峻別を超える語り部として歴史に参加するにいたるだろう。絶望の地獄をくぐりぬけたあとの希望が観るものの心に立ち上ってくる。この映画作家のもつ志の高さに敬意を感じずにはいられない。








