読書ノートから



その4 2010年盛夏 (10.8.17記)

早川征一郎の意義ぶかい労作

私の読書は、今では一般書に偏り、この欄でも入手が容易で広く読まれそうな書物を扱うことが多いけれども、ときには、多少むつかしくても、テーマの上で上梓に大きな意義があり、かつ内容の充実した労働研究の専門書も紹介を試みたい。たとえば早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年) 』御茶の水書房(2010年)である。

80年代半ばのイギリスでは、新自由主義的な経済政策の一環として国有基幹産業、炭鉱の大合理化(20ピット閉鎖、2万人削減)をはかるサッチャー政権に対抗して、炭坑労組に結集する10万人以上の坑夫が、きびしい貧困に耐えて1年にもわたるストライキを敢行する。同時期の日本でのまさに同質の政策、国鉄の分割民営化に対する国鉄関係労組の「闘い」の脆弱さと比較してみよう。それはイギリス労働組合ならではのまことに強靱な抵抗であった。だが、サッチャーは、挑戦にさきがけて周到に労働者の連帯行動の合法性を規制する労働関係法の改革を進めており、またイギリス経済の現状を憂慮してサッチャーに一定の理解を示す世論、他労組、組合支部もみられた──サッチャーはストライカーを「内部の敵」とよんでいる──という背景のなかで、騎馬警官による暴行、スト破りに報いるクリスマスボーナスの支給などをふくむ容赦なき弾圧を行使して一歩も譲らず、炭坑労組はついに敗北するにいたる。その敗北は、新自由主義の浸透が【強靱な組合主義を内包した社会民主主義】の西欧を変質させたという点でグローバルな意味をもつひとつの画期であり、それゆえ、本来なら日本でも立ち入った考察が望まれていた労使関係関係論の重要テーマであった。

猛暑のなかで読みついだ早川本は、その空隙を埋める。早川はサッチャーの周到な産業および労働政策、労働組合内部の対立と論争点、争議の経過、その余波の憂鬱な諸相などを、くりかえしそれまでの記述をまとめながら実に丁寧に明らかにする。この文章の性格上、これ以上の評論のゆとりはないが、およそ労作の一資格である資料の克明な読み取りが、この研究の信頼性をいちじるしく高めていると思われる。

ただ、いつもながら「ないものねだり」をすれば、私の好みでは、争議の日常、ストライカーの経済生活、ポリスバイオレンスに対する「ピケットバイオレンス」などの具体的な姿、さらには妻たちの思い、フェミニストやエコロジストをふくむ支援者たちの期待など、もう少し人びとの「物語」も読みたかった。それになによりも、もう「古い」のかもしれないけれど、伝統の階級意識と炭坑コミュニティ意識の色濃い闘争そのもののエネルギーのありかを! この争議も無関係ではない96年『ブラス! 』(マーク・ハーマン)、00年『リトル・ダンサー 』(スティーヴン・ダルドリー)などの映画にやはり感銘を禁じえない私にとって、それは抑えがたい望蜀の思いである。


推理作家のドキュメント──『裁判百年史ものがたり』

裁判百年史ものがたり 』(文藝春秋、2010年)は、著名な推理作家の夏木静子が、近現代の日本の司法史のなかで画期的な意義をもつ12の重大事件について、加害者の事情、それに際して、あるいは毅然として法的正義に殉じ、あるいは当時の権力者の政治的配慮や「その時代」の偏見からあえて不当な有罪判決をした司法の対応を、わかりやすく説得的に語る良書である。

明治期のロシア皇太子襲撃・大津事件と大逆事件。戦争末期の翼賛選挙(無効)事件。終戦初期の帝銀事件、松川事件、いわゆるチャタレイ裁判、18年を経てついに二度目の最高裁で冤罪が認定された八海事件。高度経済成長期、連続殺人というかたちで地方出身の恵まれない若者の鬱屈を突き出した永山事件。そして犯罪被害者の権利擁護と救済に道を開いた97年の岡村弁護士夫人殺害事件・・・。今の若い世代はよく知らない事件も多いと想像されるゆえ、詳細を紹介したい思いに駆られるけれども、まずは一読を勧めたい。それぞれがくっきりと時代の刻印を刻んでおり、歴史物語としても第一級のおもしろさである。第二審までの経過が今井正監督の傑作『真昼の暗黒 』(56年)にみごとに映像化された八海事件など、刑事の「カン」から「共犯」とみなされ、検察のメンツからあえて有罪とされた人びとが無罪とされるまでには、実に三回の死刑判決をふくむ七回の裁判が行われたのだ。

国家権力が「政治判断」や偏見・予断をもってことに当たれば市民の恐怖ははかりしれない。それでも、大きな圧力のもとで司法の独立性を守りぬいた裁判官たちはいつも確かに存在した。そして人間としての正当な扱いを求める庶民の願いを汲むしかるべき司法判断は、表現の自由の制約、冤罪、尊属殺人の不当な重罪性、性差別的な離婚許認可の論理、犯罪被害者の人権無視などはあってはならないという現時点の良識をつくりあげてきた。そんなことを私たちはこの本から読みとることができる。


高橋哲雄の回顧録に読むアカデミーの世界

さて、もうひとつ、夏木の著書よりもさらに軽やかに読める好著を推薦しよう。高橋哲雄『先生とはなにか―京都大学師弟物語 』ミネルヴァ書房(2010年)である。

高橋──「先生」とついよびたくなる──は、私より7歳年上、京大大学院でも甲南大学経済学部教員としても先輩。もともとはイギリス経済史・経済政策のすぐれた専門家であり、今ではヨーロッパの歴史と文化に関する定評あるエッセイストとして知られているが、今度の本では、恩師の京大教授、大野英二との長年にわたる、強烈な個性のぶつかりあいから生まれる、あえていえば愛憎の関係を中心テーマとしながら、かかわりが濃淡さまざまな研究者たちの人間像を描いている。

「世間の人」は「象牙の塔」にはなんて変な人が多いこと!と思うかもしれないが、それだけに、この世界に無縁ではない私には、これは巻おくあたわざるおもしろさであった。驚くべき記憶力、鋭い人間観照、達意の文章である。高橋の描く研究者たちの描き方はクールで、ときに辛辣でありさえしながら、揶揄的な印象を残さない。暖かさとヒューモア(かなしくもおかしい)がある。老熟なしにはできない叙述である。

若い日のことを細部に至るまで思い返し記述することは、愉快なことばかりではないだけに、高橋にとってもそれは重い心労だったことだろう。しかしその作業によってこそ本書は、その意図とは違うかもしれないけれど、「知識人たち」の住む大学教員の世界とは、ともすれば奇妙に拘束的な、市民感覚からみればいびつな界隈になることを明らかにしている。類似の状況は現在の大学にも無縁ではあるまい。ちなみに私ごとながら、高橋らの努力によっていびつさを改められた後の甲南大学に就職できて、私はとてもしあわせであった。記して高橋先生に謝意を表したい。