読書ノートから
その6 2010年晩秋~冬 (10.12.16記)
いつも思うことに、労働問題の研究は、なによりも労働者の具体的な体験を細部まで凝視することにはじまる。そう視点を定めて、私はこれまで良質のジャーナリストの詳細な労働ルポを好んで読んできたが、スティーヴン・グリーンハウス『大搾取!』(曽田和子訳、文藝春秋、2009年-原書08年)は、2000年代アメリカに働く人びとの広汎な苦境をまことに克明に描いて、バーバラ・エーレンライク『ニッケル・アンド・ダイムド ――アメリカ下流社会の現実
』(邦訳・東洋経済、06年)、ディヴィッド・K・シプラー『ワーキング・プア――アメリカの下層社会
』(邦訳・岩波書店、07年)など、この分野のすぐれた類書に勝るとも劣らない出色の作品となっている。
ニューヨークタイムズ社で志願して労働担当記者になった著者は、産業も企業も、工場労働、労務職、販売職、サービス職、ソフトウェア専門職・・・といった職業も、きわめて多様な不遇の労働者たちへの徹底をきわめる取材を重ね、満ちあふれているにもかかわらず恵まれた市民が見まいとしがちな、彼ら/彼女らの受難の諸相を生々しく伝える。電子技術を駆使した分きざみの作業管理と休憩監視。深夜に倉庫に閉じ込めての重筋労働。工場の安全無視と深刻な労働災害の頻発。当然視されるサービス残業。ほとんど生活を賄えない低賃金。いつでも解雇できる非正規雇用の活用。従来のアメリカを特徴づける企業別付加給付としての医療保険、年金、補足的失業給付などの容赦なきカット。そしてそれらに抗おうとする労働者を、不正行為・セクハラ・虚偽証言の捏造によって放逐すること──ここには「原生的労働関係」(労働保護法も労働組合もなかった時代の労務)かと見まごうばかりの搾取と抑圧が本当にある。
けれども、このようなアメリカの暗い領域のなか、ひとすじの光として私たちにまばゆいのはたとえば、プラスティック会社がくりだすフルセットの非道の処遇に対して、ぼろぼろに疲弊しながらもどこまでも告発を続ける貧しい二児の母、シラキューズの「ノーマ・レイ」とよばれるキャシー・ソーミエの佇まいだ。また、サービス従業員国際組合による大規模な清掃労働者の組織化の成功や、「使い捨て」だったラスベガスのサービス労働者を組織し、キャリアー展開を可能にする技能訓練制度さえ樹立したキュリナリーワーカーズ第226支部の営みなどは、労働組合というものがなお労働者の明日にとって決定的な意味を擁することをあらためて私たちに教える。著者は、労働者の状況をこのように惨めにした大きな要因を、90年代以降のアメリカでの組合運動の衰退に求めてもいる。この視角は、おそらく日本の労働組合運動の実績の乏しさを反映してであろう、類似のシビアな労働の状況を撃つ日本の労働ジャーナリストには乏しいように思われる。
この種の労作は、要約すればむしろ薄っぺらな印象を与えてしまう。本書に盛られている統計的な総括や説得的な考察ばかりでなく、労働者の具体的な体験をも記憶に留めるべきこととするならば、本書の大半のページには傍線が引かれるだろう。読者はともかくもこの460ページにわたる受難の物語を読み、みずからの索引をつくるとよい。ちなみに私は最近、NHK「無縁社会」プロジェクト取材班『無縁社会
』をひもといたが、『大搾取!』の後では、これは記者たちのヒューマンな思いがこめられた警世の良書ではあれ、その取材の厚みと深みは今ひとつという印象を否めなかった。
著者ノーマ・フィールドは、アメリカ占領下の1947年、米軍人の父と日本人の母との間に生まれた混血児。65年、渡米して父のもとで大学に入学、日本文学を専攻してシカゴ大学教授になった女性である。私はこの人の『小林多喜二――21世紀にどう読むか (岩波新書)
』(岩波新書、2009年)のもつ一種のみずみずしさにふれてからいっそう、かつて高い評価を受けたときく本書『天皇の逝く国で
』(大島かおり訳、みすず書房、1994年)を探していたので、これを名古屋の古書店で見つけたときはうれしかった。
本書は、昭和天皇の逝去前後における国民の諸活動のめざましい自粛ぶりから筆を起こし、「象徴」天皇制の下でフレームアップされた多数派日本人の常識を踏み超えた人びとの軌跡を尋ね、その語りに耳を傾け、彼/彼女を取りまく日本社会の世間知のありかを探っている。これはその経歴ゆえに愛着と違和感・批判の双方を抱えもつ著者のユニークな日本(人)論だ。尋ねる人は、天皇の軍隊によって過酷な献身と犠牲を強いられた惨苦を忘れられず、当地の国民体育大会で日の丸を焼いた知花昌一、法律・政治・歴史といった公的世界の「抽象」を私生活の具体的なことがらと照らし合わせて考えるすべを体得し、自衛官の亡夫の護国神社への合祀を拒んで違憲訴訟を起こした山口の中谷康子、「公人」としてのタブーを犯して天皇に戦争責任ありとはじめて明言した、隠れキリシタンを祖先にもつ長崎市長の本島等(ひとし)である。
あらためて気づかされた多くのポイントのうち、さしあたりふたつだけあげよう。ひとつは、「なんらかの点で他の人と違う人は、もっとも被害を受けやすく、それゆえに不当な束縛や圧力を敏感に感じとるから、彼らこそ、万人の自由が現にあるかどうかを確証し、それが現実となるよう努力するほかない人びと」(170頁)という把握である。そう、私好みの表現で敷衍するなら、しばしば(上の三者のように)村八分や非難の対象にされる人、世間的には「いやなやつ」が自由であってはじめて、その名に値する「人権」が実在するといえるのだ。なにごとも世間知に従う人はふつう自由や人権の不可欠性を意識しないで身すぎ世すぎできるからである。
もうひとつ。著者は、政治史的にはまことに明らかな昭和天皇の戦争責任にふれて、「ヒロヒトが『すまなかった』と言いそびれたのだとすれば、ふつうの日本市民もまた、その謝罪を要求する機会を逸した、したがって自分たち自身の(たとえばアジアの人びとに対する加害-熊沢)責任の可能性を考える機会をも逸してしまったのである──その責任はたしかに公職にある者や天皇の責任とはちがうものであるにしても・・・」と述べる。深い共感を禁じえないが、ノーマ・フィールドの認識の独自性は、ここからさらに進んで、「それ(戦争責任)をずるずると否定しつづけたことが、経済的成功に必要とされた過酷な規律に黙従することへとつながった」(243頁)というところにある。「日本では、国中の人びとがたえず忙しくさせられて、脱線ひとつできない、子どもでさえも」。ノーマはそう語る本島等(296頁)とともに、まさに戦争責任論の回避に「象徴」される、ともかく多数派の常識的な発想・タブーを犯さない生活スタイルから外れまいとする日本人の心の靡きが、「天皇の逝く」ときになっても、いや戦争の惨苦が忘れ去られがちな現時点だからこそというべきか、働きすぎを競うような私たちの労働と生活の日常を軌道づけていると語りかけるのである。
私が惹かれるこうしたメッセージや考察のはざまには、ノーマが育ったかつての日本の美しい自然、懐かしい母との生活、年中行事の思い出などがちりばめられている。大島かおりの訳文は、原文はもちろんであろうけれど、ときにリリカルで美しい。








