読書ノートから



その2 2010年春 (10.5.10記)

デビーとアフガニスタン女性たちのおしゃれ奮闘記

2002年5月、30代後半のアメリカ人美容師デビーは、医療関係のNGOメンバーの一員として救急と災害を手伝うため、カルザイ政権下のアフガニスタンに赴いた。
そしてほどなくデビーは、「私がアフガニスタンの人たちにしてあげられるだだ一つのこと」を見つける。ここカブールにビューティスクール(美容院&美容師養成所)をつくること。上のサブタイトルをもつ本書、デボラ・ロドリゲス『カブール・ビューティー・スクール――デビーとアフガニスタン女性たちのおしゃれ奮闘記 』(仁木めぐみ訳、早川書房、2007年)は、それからほぼ数年にわたって、デビーがアフガンの「姉妹たち」とともに、くりかえし立ちはだかるさまざまの困難に立ち向かう軌跡を、友人のライターの丁寧な叙述を通して伝えている。

長年のタリバン支配もあってイスラム原理主義の色濃いアフガンでは、端的にいって女性は男たちの所有物とみなされている。女性は全身をすっぽり覆うブルカの着用のない外出、家の外での就業、家族や夫以外の男性との同席などは許されない。デートなんてもってのほか。一夫多妻制の承認のもと、父親はできるだけ有力な男に娘を売るかのような結婚契約を結ぶ。夫は、妻に絶対服従を求め、気に入らなければ暴力をふるっても非難されることはない。それどころか、あえて離婚や別居に踏み切れば投獄されさえするのだ。この地にビューティスクールをつくり、職業としての美容師を養成することが、どれほど困難で、しかしそれだけに、その事業の継続的な成否は危うかったにせよ、どれほど意義ぶかい試みであったか、容易に想像できよう。

本書が多くのページを費やすのは、ビューティスクールにやってくる女性たちが訴える、受難の体験の生々しいエピソードだ。デビーは彼女らとともに泣き、励まし、語り合い、なんとかやってゆける具体的な方途を考える。そしてその過程でデビーは、笑いが弾けもするおしゃべりを重ね、ついには「姉妹たち」の心に潜むつよい自立の欲求を育ててゆく。デビーと女たちの共有する解放のよろこびが心をうつ。

その母も美容師であったデビー自身も、長らく「居場所」を見つけられずに職業を転々とし、離婚を経て二人の子をもつシングルマザーだった。説教師である二人目の夫の異様なまでの嫉妬と拘束癖、そしてDVに悩みぬいた女性でもある。アフガン行きも、その契機となった貿易センタービルでのボランティア活動も夫は妨害している。本書から受ける感銘の質について語るとき、この庶民的なデビーの原体験を忘れることはできない。デビーはアフガンについて学び、「自分の生活にも、あの国の女性たちと同じくらい自由がない気がした」のだ。だからいったん帰国して寄付を募るなどの準備を整え、離婚してまたアフガンにきたとき、デビーは「やっと帰ってこられた」と感じる。「私が自由になれたのはあなたたちのおかげ」、「姉妹たち」は「私の傷ついた心を癒し、また自分を信じられるようにしてくれた」、デビーはそう語ることができた。女たちに息づく自立の欲求の、先進国と途上国の垣根を越えた出会いがここにある。


現代中国の女性労働者──そのすさまじい「個人主義」

アジアの女性たちの姿を克明に伝えるもうひとつのドキュメントを紹介しよう。

レスリー・T・チャン『現代中国女工哀史 』(栗原泉訳、白水社、2008年)は、農村から工業都市、東莞市へ働きにきた若い女性たち、「民工」の04~07年頃の実像を、くわしくは二人からの長期のヒアリングにもとづいて語っている。

ここにはもちろん、工場の仕事や労働条件に関する情報もある。たとえばナイキ、アディダス、リーボック、アシックスなどの運動靴をつくる7万人(8割は18~25歳の女性)が働く大製靴工場の組立ライン作業。ストップウォッチでスピードが測られる細分化された流れ作業の月給は手取り約600元(7800円)、日11時間・週60時間勤務、10人相部屋の寮生活、離職率は年60%だ。けれどもこの本の主内容はなによりも、かつてとは異なり、家のためでも、まして国家や共産党のためでもなく、自分の成功のために、ひたすら貧しく低くみられる下層労働者のステイタスから浮かび上がるために、一人ひとりで苦闘するすさまじい個人主義の生きざまである。

「私たちは貧しく生まれました。貧しいのは、自分のせいではまったくありません。でも、貧しいまま死ぬのは罪悪です」(民工のひとり伍春明の日記)。工場労働から管理職や事務・販売職へ、ひいては起業への強烈な上昇志向が、彼女らのすべての発想のもとにある。階層上昇=成功の指標は数字で表現されるもの、収入、マンションの広さ、マイカーの値段、ブランド商品などである。獲得すべき恋人や夫も高収入の職業で、身長が高くなければならない・・・。彼女らはそのために、ほとんど詐欺もしくは新興宗教すれすれの「自己啓発」ビジネス──技能講習講座、英会話教室、結婚紹介などの誘いに応じることもためらわない。彼女ら自身が始める起業にしても、たいていはマルチ商法のような物品直接販売である。民工たちは拝金主義的で、なんでもありの現代中国的ベンチャーを活用するとともに、その餌食となっている。不自由で貧しい農村には帰りたくない。ここは自由で豊富な機会が開かれた世界なのだ。しかし一方、都市の地味な労働者階級のまま留まろうとするに不可欠な生活保障と心の自足は、あまりに絶望的と受けとめられているかにみえる。

差別と貧困に立ち向かう可能性をはらむ、もうひとつの状況改善の方途、フェミニズム、労働組合主義、民主化運動などについて民工たちが語ることはないという。彼女らは長年にわたり貧しい女性たちを苦しめてきた中国の歴史や制度や伝統にとらわれない。それらを気にせず、そこから「浮遊」して、自分の運命を変えるチャンスに賭ける。社会のゆくえ、他人の運命を気に病むことはない。それだけに元気なのだ。

もちろん成功者の比率は限られているだろう。だが、中国には他の開発途上国の大都市にみられるスラムは形成されていない。この興味ぶかい事象の背景はやはり、困窮すれば誰かが迎えてくれ、ともかくも「食える」農村があるからだと著者は言う。精神的・文化的にはともかく、この点でなお途切れない故郷との紐帯が、社会保障や労働組合のようなセーフティネットの不備なこの大国の安定に寄与している。

みずからも中国を追われた名門一族に属するアメリカ国籍の著者は、こうした現代中国女性の姿に結局は共感を表明している。このような中国の経済はたしかにいっそう成長・発展するだろう。とはいえ、この国の多くの人びとの総体的なしあわせのゆくえは、なおヨーロッパ的な福祉社会を評価する私には、まだ確信できない。


日本の生活保障のありよう

では私たちの国についてはどうか。最後に、これからの日本の生活保障システムというテーマに取り組む宮本太郎『生活保障──排除しない社会へ』(岩波新書、2009年)にふれておこう。

これまでの日本の特徴は、年功賃金と終身雇用、性別役割分業、低位の失業率などによる西欧的な社会保障の代位であった。しかし、このいわば企業社会中心的な生活保障システムは、およそ90年代以降、新自由主義的な構造改革のもとで激増する非正規労働者のワーキングプア化によってその限界を露呈した。だが一方、西欧型の福祉国家もまた、経済グローバル化の波に洗われ行きづまりを見せている。では、どうすればいいのか。宮本は、「雇用と社会保障」を込みにした概念、「生活保障」の方途として、両者を切り離すベーシックインカム(BI)政策と、両者をこれまで以上に結びつけるアクティヴェーション(AC)政策という選択肢を示し、BIを部分的に取り入れながらも、その雇用促進の点での不備を指摘して、セーフティネットもトランポリン型にするよう、ACを重視すべきことを説いている。

宮本はみずからの研究蓄積のある北欧に学ぶ。福祉国家の経済的困難を乗り超えようとする北欧諸国の雇用の保障・促進の考え方の核は、周知のようにフレクシキュリティ(柔軟性+生活安定)、より具体的には「黄金のトライアングル」とよばれる、柔軟な労働市場(職業移動の容易さ)、長期間の失業給付、積極的労働市場政策(職業訓練などによる失業者の雇用促進)である。閉じこもる「殻の保障」ではなく変化に応じる「翼の保障」とも特徴づけられる。誤解を恐れずにいえば、これは「寛容すぎるウェルフェアから優しいワークフェアーへ」の主張ということができる。

そのうえで示される「雇用と社会保障の新しい連携4領域」の具体策を紹介しよう。すべては労働市場政策に行きつくが、内容は次のようである。

  • 参加支援(生涯教育、高等教育、職業訓練、保育サービス、就労支援)
  • 働く見返り強化(最低賃金制、均等待遇、給付つき税額控除、負の所得税、キャリア-ラダーなど)
  • Ⅲ持続可能な雇用創出(新産業分野・第6次産業育成、公共事業改革など)
  • 雇用労働の時間短縮・一時休職(ワークシェアリング、期間限定型BI、ワーク&ライフバランスなど
    以上、Ⅰ.&Ⅳ.=「人」を対象/Ⅱ.&Ⅲ.=「場」を対象

全体として目配りの利いた好著である。どう考えるべきかの方向性については私にも異論はない。というより、今ではこれは年功システムの改変や福祉給付の節約や失業者に対する働きかけはいっさい拒むという保守的な論者を別にすれば、常識論ということができる。本書のもつ穏健なバランス感覚は民主党や連合にも歓迎されよう。

とはいえ、読後感にはあるむなしさがつきまとう。なぜなら、この好個のテキストには、この方向の追求が現代日本ではなぜ難しいかの考察がないからだ。それができるためには、論者はひっきょう日本の労使関係や労働組合、ひいては民主党の基盤などについての立ち入った分析を求められるだろう。宮本はそこに立ち入っていない。
たとえば本書でのワークシェア論などは安直きわまりなく、日本でもっとも推進されるべき一般的な労働時間短縮および均等待遇の必要性の強調と、なぜそれらが挫折を余儀なくされているかの考察──たとえば拙著『リストラとワークシェアリング 』(岩波新書)などを参照してほしい──が欠如している。上の「連携4領域」にしても、たとえばⅡやⅣの具体策は誰が実践するのか。労使関係・労働組合のありようを批判的に考察することなしには、それらの実践主体がまったくみえない。