読書ノートから



その5 2010年晩夏~初秋 (10.10.7記)

『家族の勝手でしょ!』──食卓にみる現代の家庭

 夏から秋にかけて乱読したさまざまな本のうち、ある意味でもっとも衝撃的だったのは、岩村暢子『家族の勝手でしょ!写真274枚で見る食卓の喜劇 』新潮社(2010年)だった。1960年以降に生まれて首都圏に住み、75%が10歳未満の子どもをもつ、30代後半を最大多数とする主婦たち。本書の内容は、彼女ら120人による「食育!?」の実態を、事前アンケート、1週間の食卓の記録と写真274枚、事後の個別インタビューを通じて暴露する、ユニークな現代家庭の批判である。

まず食事の内容の貧しさに驚く。総じて加工品づくしである。市販の冷凍食品・レトルト・デリバリー・テイクアウト、具なしの「素」ラーメン・パスタ・焼きそば、「単一素材料理」などがきわめて多い。複数の主食だけの献立、パン菓子の食事もままある。たまに手づくりの料理があるとすれば、しばしば親からの差し入れで、主婦自身が「面倒な」野菜サラダをつくったり魚を焼いたり揚物をしたりはしない。えっ、ほんと?と思うのだが、今では生魚と干物の区別がつかない主婦も半数ほどいるという。味噌汁もほとんどなく飲み物はしばしばペットボトル飲料である。定量的な比率把握はされていないが、要するに膨大な掲載写真のうち、「朝の連続テレビ小説」で登場人物たちが囲むような食卓はまずないといってよい。

この食材の特徴と関連して、今では皿、とくに各自の取り皿というものがあまり使われない。チンしたパック食品がそのまま、あるいは鍋のまま供されるのだ。そして食事の仕方はといえば、家族そろって食卓を囲み同じものを食べるというよりは、「動物の餌場」みたいに並べられた各種のカップ麺、ハンバーガー、おにぎり、菓子パンなどの市販食品を、各自の好みに応じて、ときには好きな時間に食べることも多い。

深刻なのは、こうした傾向を若い主婦たち──その3~4割のみがパートやフリーランスで働いている──がさして問題視していないことだ。彼女らの食事観の特徴は、岩村のヒアリングによれば、(1)「私の時間」を大切にして、手のかかる料理や洗い物をできるかぎり避けて楽をする、(2)とにかく「好き嫌い」に固執する子どもの好みに合わせることである。まれに苦労してつくった手づくり料理や栄養価の高い食品や、正しい箸の持ち方などのマナー教育を子どもがいやがるとき、それを強いるのは「疲れる」、「傷つく」、ストレスを感じていやになるという。好みは慣れに従う。だからファーストフードになじんだ子どもが、なにがいい?と聞かれて、冷凍ピラフなどと答えれば、「ラク!」「ヤッター!」「ラッキー!」と快哉を叫んだりもする。

良かれ悪しかれ、自分の時間と気分をなによりも大切にする若い主婦層のなかに私たちは、もはや家政のしがらみにとらわれないという意味での女性解放の一形態をみるべきだろうか。岩村の辛辣な批判にはどことなく伝統派家庭論のニュアンスも漂う。だが、このような食卓のあり方が、いま眼前にみる、人びとのかけがえのない居場所としての家庭の崩れとどこかで関わっていることはおそらく疑いを容れない。岩村のスタンスはどうあれ、その詰問は辛辣であるゆえにこそ、食育の危機といういま枢要の問題性を抉り出しえている。ちなみに被調査所帯の年収は400万円以上800万円未満58%、800万円以上32%であって、貧しくゆとりのない階層とはいえない。


『それでも日本人は「戦争」を選んだ』──素人の偏った読み方

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ 』朝日出版社(2009年)も、おもしろくて一気に読み進んだ書物である。第一級の政治史家が、例外的に勉強好き?の高校生に、日清戦争から太平洋戦争に至る日本の五つの戦争への軌跡を、歴史学の最近の成果も吸収した深い学識にもとづいて語る。密度は高いのに実にわかりやすい。多彩な人物描写も興味ぶかく、話題も豊富で飽かせない。私にとってこの書は、日本の近現代史について忘れかけていた大切な事実を思い起こさせ、また新たに学ぶことも多い好著であった。しかしここでは、その「学恩」はさておき、あまりに世評高い本書をあえて斜に見て、僭越ながら自分流の不満を語りたいと思う。

「それでも日本人は戦争を選んだ」というタイトルは本書にふさわしいだろうか。このタイトルに私が期待した内容は、日本の庶民・大衆がなぜいくつかの戦争を、おそらくは「強制された自発性」をもってついに選ぶことになったのか、すなわち民衆の受けとめかたの考察であった。だが、この点の分析はかなり手薄であって、主要な関心は、日本と関係各国の為政者の外交的選択に集約されている。その選択の背景もそれなりの心労も周到に検討されているけれども、「民主主義」体制でない戦前において結局、戦争を選んだのは政治家または軍部であって、断じてふつうの「日本人」ではない。私はひとえに「だまされ史観」に与するものではないが、やはり行使しうる権力によって軽重の異なる戦争責任、たとえば天皇の負うべき責任を正面から問うことなしには、日本の戦争への軌跡を追うことはできないように思う。それゆえにこの有益な良書は、私には民衆の痛恨の体験としての戦争の歴史ではなかった。


渋谷望のユニークな労働者論──『ミドルクラスを問い直す』

このほか、いくつか読んだ新書のうち、第一に勧めたいのは渋谷望『ミドルクラスを問いなおす---格差社会の盲点 (生活人新書) 』NHK出版生活人新書(2010年)である。

 内容豊富な本書の要約はむつかしいけれど、渋谷によれば、「一億総中流」の典型となる日本のミドルクラス(≒大企業の従業員)とは、高度経済成長以降、戦後労働組合の変質および能力主義の浸透と相互補強的に、労働者もちまえの連帯文化から離脱して、個人として階層上昇の競争に身を投じた人びとのことである。そのビヘイビアは個人の能力評価によって正当性を付与されるはずだった。だが、日本企業で評価される「能力」は仕事の成果なのかフレキシブルな「生活態度」なのか不分明であり、経営側の恣意的な処遇をもたらす傾向がある、また、そもそも能力とは個人に属するものではなく協働のなかで集団的に培われるもの。それを個人の処遇の原理とするには本来的に無理がある。そうした内在的な矛盾ゆえに、ミドルクラスの立場は本来的に不安定であった。のちの新自由主義は、それなりにこれらの矛盾に食い入るかたちで「資本の暴力」を行使し、この無防備な階層を立ちすくませることになる・・・。

渋谷の叙述は、労働者文化のグローバルな規模での史的検討、「コモンズ」の復権によるミドルクラス社会の超克論に及ぶ。このくだりも興味深いが、論点が広がりすぎて十全の説得性は今ひとつで、新書の紙数ではつくせない感じだ。しかし、とくに前半での認識は卓抜であり、ユニークな日本労働者論としてすぐれていると思う。