読書ノートから




その12 2011年厳冬 (11.12.10記)

『居場所の社会学──生きがたさを超えて』のメッセージ

いま、貧しいばかりでなく助けあう絆も失って、孤絶の「生きづらさ」を抱えもつ人びとが少なくない。現時点の多くの労働者も、労働市場や職場にまつわる個人の悩みや苦しみを共通の問題と感じてくれるような仲間を容易に見出せない。彼らが遭遇するシビアな企業の要請に協同して対抗できないのは結局、この孤絶のゆえであろう。私の当面の関心事である「労働組合運動の復権」にとっても、労働者がそこを「居場所」と実感し、そこにいる他人との間に頼みうる絆を信じることのできるような場は、どこに、あるいはどのように発見できるかは、まさに枢要の問題領域といえよう。その意味で、気鋭の社会学者、阿部真大著『居場所の社会学──生きがたさを超えて 』(日本経済新聞出版社)は、そのテーマに惹かれた待望の書であった。

この書はメッセージとして、次の「12の命題」を読者に贈る──(1)誰かと一緒にいるからといって、居場所があるわけではない。(2)ひとりでいることはスティグマ化することもある。(3)居場所の拡張は間違うこともある。(4)過剰適応はよくない。(5)まわりとのコンフリクトを解決していくなかで、新しい居場所はできる。(6)誰といなくても、そこは居場所となりうる。(7)一定の条件のもとでの「ひとりきり」はスティグマ化しない。(8)職場のマニュアル化によって、「ひとりの居場所」を守ることができる。(9)居場所はその人にとっての「いのちづな」である。(10)居場所としての職場は、それが不安定な一カ所になったとき、問題化しやすい。(11)第三の居場所づくりはオルト・エリート(過去のアウトサイダー)の知恵に学ぶことができる。(12)臨界点の居場所を知ることは安心感につながる。

すべて書き写したのは、これらの命題の、噛んでふくめるような、ときには具体例を通して懇切な説明が本書の内容だからである。だからこれはある意味でコミュニケーション能力育成のノウ・ハウ本のようだ。だが、阿部のメッセージには、これまで人間関係に悩まないでもなかったらしいみずからの体験の反芻に裏打ちされた、人間の心情──たとえば人によっては、熱く関わってくるなかまに無理に応えようとするとかえって居場所を失う──に対する洞察がちりばめられている。「心の弱さ」への配慮も注目に値する。上の命題のいくつかに思わず膝を打つ人も多いだろう。

しかし、読後感は単純ではない。その説明の巧みさ、本づくりの新しさに驚かされる一方、感銘は薄いというほかはない。もう35年ほど前から私は、労働者の居場所や絆に関する関心を私なりの「団結の社会学」、生き延びる労働組合の基礎にさまざまの形態の「労働社会」を見出すという方法のうちに込めてきた。そんな旧世代の研究者としての私は、例えば職場が居場所となりうる条件を構造的・歴史的に模索してゆく方法になじんでおり、どこまでも人間の感じ方・受けとめ方にこだわる、ある意味で心理学的アプローチであるかにみえる本書の論調には、どうしても不満が残るのである。例えば本書は、命題(5)が通用するのはチーム労働、(8)がふさわしいのは境界が明瞭なひとり仕事とみる。いちおう納得しうる規定である。だが、まわりとの「コンフリクトの解決」も、命題(4)の「過剰適用」の抑制も、「マニュアル」の作成も、それらの可能性はすべて、ひっきょう仕事のノルマや人事考課といった企業労務に左右されるのだ。すなわち「居場所」の成否もまた、リアルな労働現場では、労務管理vs.労働組合機能のせめぎあいのうちにある。その意味で、広義の労使関係というものへの著者の関心の希薄さが惜しまれよう。

もっとも、現代の「団結の社会学」は、「ひとりであること」自体は居場所の喪失とはいえない、なかまの汗ばんだ抱擁をむしろ耐えがたく感じる若者もまた少なくないということを、終始クールな本書から学ばねばなるまい。


『いま、先生は』のものたりなさ

私たちの国では、医療問題について論じる人は多いけれど医師や看護師の労働環境について語る人は少なく、教育問題に関する評論家は多いけれど教師の労働条件に言及する論者は少ない。労働問題を二の次とする意識は、日本の政財界や論壇のひとつの特徴ということさえできる。それに加えて、「仕事自体はやりがいのある」医療や教育の専門職が公共部門に属しているときには、行政改革論の悪しき惰力が作用して、彼らの労働条件は一般より「恵まれて」いるという思い込みのもとに、それ以上の改善を示唆することは「国民の利益」に反するという世論がなお根強いのである。

それでも、近年、さすがにこれらの分野で過労死・過労自殺が頻出するに及んで、遅ればせながら医療関係職や教師の過酷な労働のありようが社会的にも注目されるようになった。早い話、文科省の学校基本調査によれば、95年から08年にかけて、教員の病気休職者は3644人から8578人に、うち精神疾患による休職者は1240人から5400人に増え、前者に占める後者の比率は34%から61%に高まっている。教師の心身の疲弊の、それは端的な指標にほかならない。

このたび刊行された朝日新聞教育チームの執筆・編集になる『いま、先生は 』(岩波書店)は、くわしいヒアリングによって教師の労働条件・労働環境の過酷な現状に迫る好著である。授業以外の業務のあまりの多さからくるおそるべき繁忙、持ち帰り仕事をふくむ実質労働時間の長さ、加えて多忙さと査定の強化がもたらす教師間の助けあい気風の衰退、援助なき若手教師の孤立、社会のひずみそのものを反映する子どもや保護者とのコミュニケーション困難──それらの合力が、もともとやりがいのある仕事だけに教師の心身を苛み、広汎なメンタルクライシス、ひいては過労死・過労自殺さえ引き起こす・・・。これは市民が誰しも知らねばならぬこうした事実を具体的に伝えるレポートということができる。

私は、教師の労働条件を近年の関心の一領域として、2010年の著書『働きすぎに斃れて──過労死・過労自殺の語る労働史 』(岩波書店)では、一つの章を設けて教師たちの死を綴り、本サイトのエッセイ「その7」「労働者としての教師」(2011年2月)では、教師の労働現場での今日のしんどさを多方面から論じている。それゆえ、いささか思い上がった言い方ながら、この書には深い共感を覚えたとはいえ、新に知るところはそれほど多くなかった。だからここでは、私自身もっと考えたいこと、そして本書を読んで物足りなかったいくつかのポイントを記しておきたい。

その1。職場としての学校・労働者としての教師の労務管理と、ふつうの会社の従業員に対するそれとの異同を立ち入って考察してほしかった。たとえば、いわゆる人事考課・査定──橋下知事ならずともおそらく「国民」の多くも必要と考えるであろう──の、教育現場に望ましいかたちなどをヒアリングを通じて模索する必要がある。

その2。それと関連して、府県-教育委員会-校長-教員と縦貫する近年の管理体制の強化がもたらす職員会議の形骸化などに、もっと注意が払われねばならない。

その3。執筆の記者たちは、日教組などの教育労働組合運動の役割をどう考えるのだろうか。それがみえない。追求が避けられている。しかし、ここにレポートされる教師の惨めさが、教師の集団的・協同的な抵抗力の風解、すなわち組合の衰退と相互補強関係にあることは自明ではないだろうか。「労働者としての教師」の労使関係、つまり教師の発言権・決定参加権のありかたを問わないとき、教育労働問題を描写する意義は大いに減殺される。組合機能・労使関係の現実にふれないのは、「偏りを嫌う」ゆえ、あるいは日教組嫌いの政財界および「国民」保守層の反発を気にするゆえであろうか。大新聞のまぬかれがたいの批判精神の限界が、ここにみえる。