読書ノートから



その7 2011年厳冬 (11.2.10記)

若年ホームレス──飯島裕子のルポに学ぶこと

従来は中高年層が多かったホームレスのなかに20~30代の若者が「激増」している。飯島裕子/ビッグイシュウー基金『ルポ 若者ホームレス 』ちくま新書(2011年)は、飯島もそのメンバーである同「基金」が2008~10年に50人を対象に実施した詳細なききとり調査をもとにして、何人かの若者ホームレスの不遇の物語を綴る好著である。あらためて学ぶところが多かった。調査結果を端的に伝える冊子『若者ホームレス白書』(10年12月)も参照しながら、若者ホームレスとは総じてどのような軌跡を辿り、どのような困難を抱える人びとなのかを書きとめておきたい。

まとめれば問題に対処するに不可欠の、各人の体験の個別性が隠れてしまうけれど、平均年齢32歳の彼らは、40%が中卒・高校中退の低学歴者ながら、それでも8割以上が正社員の体験をもつ。しかしその後、倒産、リストラ、過重な仕事や人間関係の軋轢ゆえの早期退職を経て、フリーター、日雇い、登録型派遣に転じ、契約切れや派遣切り、または「仕事なし」のために収入が途絶するとともに住居も失い、路上生活を余儀なくされている。半数が5回以上も転職。派遣切りの吹きすさんだ製造業派遣でいちどは働いた人も半数にのぼるという。もっとも若者ホームレスは、不安定ながらいくらか収入をえられる働き口のあるときにはネットカフェや24時間操業のファミレスなど「屋根のある」所に泊まる。いつも野宿の人は24%ほどにすぎない。彼らはそれゆえ、意識の上ではみずからを典型的な中高年のホームレスと区別している。

彼らのうち3割以上は片親家庭で、12%は養護施設で育った。そして今、90%は、「迷惑をかける」という本人の配慮、「勘当状態」、「家族がいない」などさまざまの理由から家族との連絡が途絶している。さらに極度の貧困や過去のトラウマや今の孤独感などが重なって、若者ホームレスの4割は抑鬱傾向にあるという。そうした心のありようもあってのことだろう、76%は積極的な求職活動の気力を失っている。

若者ホームレスの実数はまだ少ないかもしれない。だが、その激増の背景は、貧困家庭が若者に与えうる資源の乏しさ、家族関係の喪失と若者の「孤族」化、多くは働きやすい労働環境に恵まれない小零細企業での正社員就業の過酷さ、非正規雇用者の使い捨て・・・という、まぎれもない格差社会日本2010年の状況そのものなのだ。「周辺的正社員」-フリーター・登録型派遣労働者-ホームレスは、ここでも地続きであり、これは例外的に不運な若者だけの問題ではない。その一隅を照らす意義ぶかい作業に挑む飯島は、丁寧に一人ひとりの声をききとり、彼らの困難の複合性をよく知るゆえに期待はずれになっても絶望せず、なお地道な援助の方策を模索してやまない。

最後にひとつだけ、とても心に残った25歳の若者の語りを紹介したい──「時間を潰すことがなによりストレスです。ブックオフに行って立ち読みしたり、ゲームセンターでじっとゲームを眺めていたり、駅のベンチに終電まで座っていたり・・・。ホームレスってばれるんじゃないかって、内心ハラハラしながら、ひたすら 時間がすぎるのを待つんです」。服装や佇まいは普通の若者とさして変わらないという彼らは、それほど目立たずにすでに私たちの傍らにいる。


能力という問題の枢要性──本田由紀編『転換期の労働と<能力>』

「能力主義」原理による選別は、「いわれなき差別」ではなく「いわれある格差」とみなされることがことが多い。それだけに、その正否または適否の検討は私の労働研究の長年のテーマであった。ポストモダンの時代が要請する「多元的能力」について労作を擁する本田由紀の編む『労働再審〈1〉転換期の労働と<能力> 』大月書店(2010年)には、だからすぐに関心を惹かれた。現代の労働、教育、そのふたつの関連領域にわたって、気鋭の研究者10人が、「能力」を軸にそれぞれ意欲的な考察を試みている。

しかし、領域によっては私自身もいくらかは知見をもつ「能力」がテーマの、多くの寄稿からなるこのような本は、「一般書」を中心にした気軽な紹介になじむ本欄にとっていささか厄介ではある。教育や学力については自信のある議論をする「能力」がなく、労働については紙数にこだわらずより立ち入った議論がしたくなる。そこでここでは、能力主義の評価こそがおよそこの産業社会のありように対する研究者のスタンスを決めているという私見に立って、まずこの書の担う枢要の意義を確認し、その上でとくに興味を覚えた三論稿についてだけ、簡単な感想を述べるにとどめたい。

まず、日本企業の要請する能力をテーマとする梅崎修「企業内で『能力』はいかに語られてきたのか」。梅崎は、人事用語として「書かれたもの」を、その時代の経営者や労働者の価値観や感覚を表現する言説ととらえ、その「受け取られ方」を解釈する「社会構築主義」──石田光男とともに私もその方法であるという──の立場が有効であるという。くわしく紹介される言説は、終戦直後から90年代以降にわたる、経営側の論客による能力、職務、職能の、微妙な揺れをふくむ関係づけだ。そのうえで梅崎論文は、「いまわれわれが提案すべきは正しい能力基準ではなく、企業内における話し合いの場が能力構築を生み出すという道筋(可能性)ではないか」、「その話し合いの困難さを認識しつつ、その話し合いの場の構築に向けた方策を探り続ける必要がある」と結ばれている。その成否はひっきょう労使関係のあり方に委ねられ、そして本編集はそこにさらに立ち入る寄稿を欠くゆえに、読者には欲求不満の感想も残るだろう。とはいえ、要請される能力の内容が基本的に企業の恣意に委ねられてきた日本において、梅崎の視点と示唆された「入り口」の適切さは、疑いを容れない。

次に、櫻井純理「公務職場における『ポスト近代型能力』の要請」がおもしろい。公務労働調査の機会に恵まれる場にあった櫻井は、公共サービスの担い手が就業分野でも雇用形態でもきわめて多様になったいま、公務員にもその多様な担い手の業務をしかるべくモニター・管理・調整できるような多元的能力が要請されるようになったという状況を、実例を挙げて説得的に論じている。公務員の世界にはむしろこれから能力主義の導入が本格化すると予測されるだけに、対抗する戦略の構築を迫られるたとえば公務員労組などにとって、これは示唆するところ大きいように思われる。

もうひとつ。「『キャリア教育』で充分か」と題する筒井美紀の短い寄稿が冴えている。編者をはじめキャリアー教育論への批判は少なくなく、若者に対する「事実漬け」の不可欠性を持論とする筒井にとっても総じてこれは新しい主張ではないだろう。だが、私があらためて膝を打ったのは、筒井が、労働関係の諸団体・諸機関と学校の連携にまで踏み込んだ厚労省の研究報告書を評価しながらも、「そこで提示されているのは、労働者の権利の基礎知識をもって個別紛争解決に対処できる、個体化された労働者像であって、連帯(・・・利害関係の複雑な網の目に絡め取られた人々のあいだで、社会的に実効的に利己主義を調整する能力)を志向する労働者像ではない」と書いているところだ。ここに踏みこむ研究者は異端的なまでに少ないだろう。感銘を禁じえない。全体の叙述もまたびんと張りつめて快い。