読書ノートから
その9 2011年初夏 (11.5.20記)
非正規雇用で働く若者の労働・職場・生活のようすを伝える書物は今では少なくない。しかしそのなかでも、戸室健作『ドキュメント 請負労働180日
』(岩波書店)は、とりわけ独自的な性格をもつ好著ということができる。
戸室健作は、大学院時代の02年2月から05年9月にかけてあわせて180日、それ自体が違法なありようである派遣会社を経由した請負労働者として、携帯電話製造の荒井電機西野工場、自動車部品製造の山田自動車東野工場、および両者の系列工場で働いた。本書はその採用プロセス、仕事内容、作業管理方式、賃金や労働時間など・・・をくわしく報告し、その上で派遣や請負という働き方の問題点を理論的にも分析する、参与観察の「ドキュメント」。みずからの生の体験ばかりでなく、中高年層をふくむ同僚のそこに至る軌跡や述懐が聴き取られていることも貴重である。
個人的な体験の細部をみつめてこそ体制の非情な性格がわかる。ここでの若者たちの総じて過酷な状況を伝える具体的な情報は、読者それぞれの記憶に刻まれるべきであろう。私はこの本によって、非正規労働者に関するすでになじみの状況をあらためて確認するとともに、いくつかの新しい諸相を学ぶこともできた。ここでは以下、本書の独自的な特徴であるように感じられた2点を略記するに留めたい。
ひとつは、ふつう類書ではごく一般的にしかふれられない仕事そのものの考察がみられることである。たとえば戸室は、非正規労働者にも頻繁な工程間移動とモデルチェンジへの対応が可能なのは、いずれもひっきょう単純作業にすぎないためと述べ、携帯電話のソフトを新しく変更して再梱包する「ROM変」という、それぞれ6~8の手順からなる5つの工程を例に仕事内容を分析する。各手順ごとに1~18秒、労働者一人づつが担当する各工程(開梱、ソフト変更、照合、外観、梱包)ごとに25~35秒という遵守すべき作業時間が設定されている。このきわめて短いジョブサイクルの単純労働が一日中くりかえされて、1時間100台、8時間800台の生産ノルマが達成されるのだ。工場の下層労働の苦しみは、低賃金や深夜勤務ばかりではない。
いまひとつ。募集が関東地区に集中している荒井電機の界隈ではとくに、派遣・請負労働者たちはそれでも、花見、ライブ、飲み会・会食、ハイキングなどをともにする親密ななかま集団を自然に形成するという。それは登録している派遣会社の範囲に留まらないばかりか、派遣先の職場という枠さえ超えている。彼ら、彼女らは頻繁にたとえば、同じ地域の派遣先の下請け企業、ほかの製造工場、あるいは警備員、配送業、キャパクラ、建設現場、アパレル店員・・・といった職場に転職するけれど、変わってもなお同じなかまとの集いを「居場所」としているのだ。さらに注目すべきは、この集いがまた、地域の各職場の労働条件や処遇についての情報交換の場、なかまの経験者からのアドヴァイスが得られる場にもなっていることである。
多くの非正規労働者、とくにフリーターや「漂流派遣」の人びとは、あるいは「個」であることを望んでいるかもしれないが、「個」の自由を享受しうるためにはやはり「孤」であってはならない。必要なときにはhelp me!と訴えることのできる他人との紐帯が不可欠であろう。私は労働組合の意義を信奉する立場からもその紐帯のありかを探し求めてゆきたい。本書はなお不確かながらこの探索にひとつの示唆を与える。
『八日目の蝉』再読
私は映画ファンであるとともに根っからの小説好きで、昨年度はちょうど50册、今年になってからも15冊は読んでる。選んでいるつもりだが不満な読後感が残ることも多い。本欄は、生来のマジメ主義のためか、つい労働研究、社会分析、歴史書などに偏ってしまうけれど、いちどまとめて気ままな寸評を試みたいものだ。しかし今回は、あらためて心をうたれた角田光代『八日目の蝉
』(中央公論新社、07年)について私なりの感想を書きたい。横道にもそれる。気軽に読み飛ばしてほしい。
もともとこれは、「古典」を別にすれば、宮部みゆき『火車
』『理由
』、桐野夏生『OUT
』『グロテスク
』、吉田修一『悪人
』などとともに、私の最愛の現代小説であった。あえて再読したのはほかでもない、最近、映画『八日目の蝉』(成島出)をみて、これは上々の佳作ながら、その良さはやはり(というのもおかしいが)すぐれて原作の卓越性からくるものであり、また原作にくらべるとやはりもの足りなくも感じ、そこであらためて映画と小説の違いを確かめたくなったからである。ちなみに大好きな小説の映画化作品には多少とも不満が残る。最近では、不満がまずなかったのはかつて本サイトでも取り上げた『悪人[DVD]
』(李相日)であり、もっともがっかりしたのは『白夜行 [DVD]
』(深川栄洋)であった。『白夜行』はサスペンス性とともに言いようもなく切ないロマンチシズムを備えた東野圭吾の最大傑作にほかならないが、映画は全体にいかにもあらすじをなぞる希薄な印象で、またヒロイン役の堀北真希にまったく妖しい魅力がなく、あれで男たちを惑乱させるのはとうてい無理と痛感せざるをえなかった。
さて、小説『八日目の蝉』の前半6割ほどは、不倫で妊った子を堕ろして不妊になったOLの希和子が、本妻の恵津子が生んだ赤ん坊の恵理菜を誘拐して4年ほど、薫と名づけたその娘へのひとすじの愛のみに生きる、その恍惚と不安の逃避行を辿る日記風の叙述である。そして後半のくだりでは、本当の両親の元に戻されながら実母の恵津子と心の通わない関係に悩みぬき、自分のアイデンティティを見出せぬまま長じて女子大生になった恵理菜/薫が、「あの悪い女」希和子と同じように不倫の子を妊ったことを契機に、ついに過去の直視に歩みはじめ、希和子と薫の最後の安住の地であった小豆島に向かう。
その道行きに背中を押すのは、ある目論見からかつて希和子らをかくまった駆け込み寺とも宗教団体とも農業共同体ともつかない女だけの「エンゼルハウス」で薫の親友であったフリーライターの千種である。同じ体験からやはり本当の自分がわからずここから脱出したいという千種は、不思議な闊達さとやさしさをもって寄り添ってくる。自分たちを仮託した「誰もが死ぬのにさびしく生き残る八日目の蝉」は、「ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから、見たくないって思うかもしれないけれど、でも、ぎゅっと眼を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもない」──千種は恵理菜をそう励ます。そしてエンゼルハウスでは全員が私たちの母親だったと思い起こし、恵理菜の父親のない子育てに協力することを約束するのである。
この千種をはじめとして、この小説は全編を通じ、希和子も恵津子もふくむすべての女性の生きがたさを理解してその苦しみを掬う、数多の女たちの連帯の絆がまことに平易な、それでいて美しい言葉で語られ、それがどうしようもなく私たちを感動させてしまう。そればかりか、逃避行にも過去を凝視しようとする旅にも、事態の急変や感情の齟齬の醸す緊迫感とともに、ちょっとした買物などにうかがわれる女のたしかな生活感が満ち、小説世界の説得性はきわめて高い。それにひきかえ映画のほうは、道行きのいくつか、ふれあう興味ぶかい女たちの幾人かが省かれ、随所に美しい映像は見られるとはいえ、やはりいまひとつ厚みと深みに乏しいのである。








