読書ノートから
その1 2010年厳冬の数冊 (10.3.25記)
『働きすぎに斃れて
』の校正作業がようやくヤマを越えた1月~2月頃、前から読みたいとに思っていたかなり多くの本を読了した。今回は、それらのうち、とくに印象に残った作品6点ほどをあげてみる。
まず紹介・推薦したいもののひとつは、A・ファーロング/F・カートメル(乾彰夫/西村貴之/平塚真樹/丸井妙子訳)『若者と社会変容──リスク社会に生きる
』大月書店(2009年)である。
今グローバルな規模で多くの若者たちが、教育、就職、家族形成、自立的な経済生活という、以前には自然に予定されていた「移行」の困難に遭遇している。その困難は、およそ80年代以降における「後期近代」の社会変容のゆえに、かつてのように階級、ジェンダー、エスニシティといった社会の格差構造から集団的・宿命的にもたらされるのではなく、すぐれて個人の能力や努力、選択の適否、つまり個人の責任と見なされがちだ。困難の解決もそれゆえ、社会構造に挑戦する連帯的な社会運動にではなく、個人レベルの行動にゆだねられる。
けれども、実は階級、ジェンダー、人種・・・などの「強力な相互依存の鎖」はしたたかに生き続けており、そのなかで恵まれない若者たちは、「避けがたい失敗の責任を自分で負おうとしてもがいている」。この書は、このような視点に立って、必然的に生まれる「認識論的誤謬」(卑俗に表現すれば、どうにもならない社会構造のしがらみがあるのにがんばればなんでもできるという思い込み)を、さまざまな国のさまざまの領域に生起している事実の渉猟を通して徹底的に批判する労作である。
もっとも本書の実証部分は、あまりに多くの国々に関する統計的事実のコレクションに留まる感じがあって、ときにいささか散漫ではある。余暇とライフスタイル、犯罪と犯罪被害、政治参加のくだりなど、社会構造の規定性についていささか説得不足の印象もある。私の好みとしては、もっと対象を絞って、たとえばイギリスの若者についての多面的な、諸領域を連関させた考察を読みたかったと思う。とはいえ、この書では、いわゆる「自己責任論」はほとんど完全に論破されている。現代日本若者たちもまた「もがいている」今に照らしても、その指摘はまことに正鵠を射ており、感銘を禁じえない。
ファーロングらの書物の内容にも関係するけれども、若者がそれぞれの就職可能な職業でともかく生きてゆける道を探ろうとするならば、当然、日本でももっと職業教育のありかたに関心が払われねばならない。私は日本の職場での仕事のあり方への批判的考察の系論として、従来からラフなかたちで職業教育の重視を唱えてきたが、それだけに、本田由紀『教育の職業的意義──若者、学校、社会をつなぐ
』ちくま新書(2009年)は、はじめから終わりまで同意・共感できる作品であった。
本田由紀は、労作『若者と仕事
』東大出版会(2005年)以来、現実の労働社会の空を飛ぶことのできる「翼」を若者たちに! との思いを、その研鑽の発条としてきたかにみえる。この教育社会学の俊英は、この書では、現在の労働状況の変貌が教育に職業的意義を与えるべきことを不可欠とする所以、なぜ日本ではこうした問題意識が希薄なのかについての歴史的な考察、いま求められる<適応>と<対抗>の両側面を備えた職業教育の内容などを、いつもの漲る迫力をもってかっちりと書き込んでいる。全編ポレミークな筆致ながら、その論理には十分の説得性があるように思う。職業教育の重視は早くから若者を階層別のコースにわける措置であり、若者の無限の可能性を閉ざす──そうした「平等論」は、すでにひとつの迷妄だからである。
さらに、ここでひとつ「軽い本」を紹介しよう。吉田典史『あの日、「負け組社員」になった・・・
』ダイアモンド社(2009年)である。
表題から想像される内容は、サラリーマンがこのきびしい成果主義の時代を生き抜くにはとにかくスキルを身につけるべきだという奨めであろう。しかし、いちど「負け組社員」として会社を追われたルポライターであり、そうした「成功本」のゴーストライターもして、その内容の空疎なことにうんざりもしていた吉田は、会社や上司は、いや同僚さえも、従業員個人をどこまでも人間材料と考え、あわよくば成果を横取りして使い捨てるもの、能力や成果さえあれば報われるというものではないという、シニカルな立場に立つ。努力や成果がまっすぐに報われるか否かは、どこまでも社内で嫌われないことが前提なのだ。そうした企業社会で「負け犬」にならないためには、それゆえ、個人のスキル向上以上に、KYでない、妬まれない、自分の功績を誇示しない・・・などの人間関係の配慮が大切なのである。上司の横暴をチェックする労働者の連帯や労働保護基準の有効性なぞ吉田は信じてはいない。「それを言っちゃぁおしめぇよ」と言う気もするけれども、ある意味では吉田の言うとおりかもしれない。
ちなみに前作『非正社員から正社員になる!
』(光文社)によれば、吉田はかねてから私の企業社会分析に傾倒してくれている。それでいてこのような「職場で生き抜く技術」を記すところに、ビジネスルポライターとしての吉田の身すぎ世すぎがある。そのこと自体にもまた、日本企業社会に関する論壇の風潮をみることができる。
専門の勉強を離れて楽しんだ読書のうちでは、オーストリアの歴史学者による評伝、アンナ・マリア・ジークムント(平島直一郎/西上潔訳)『ナチスの女たち──秘められた愛
(上)、第三帝国への飛翔
(下)』東洋書林(2009年)がおもしろかった。
こんな本を読みたいと思ったのは、映画の秀作『ヒトラー最期の12日間
』(O・ヒルシュピーゲル)での「ちょい役」エーファー・ブラウンの印象がとても鮮やかで、ナチス周辺の女性像にとつぜん関心をそそられたからだが、本書はヒトラーやナチ・エリートの夫人、愛人、友人の女性たち14人の体験をくわしく描いている。
彼女らのナチズムへの関わりは、思想的・カルト的な帰依からひとえにヒトラー個人への愛情にいたるまでさまざまであり、ナチスの崩壊とともに殉死のように命を絶った女性も、戦後も長く生き延びていささかも過去を恥じることのなかった女性もいる。映画監督のL・リーフェンシュタールなどは、ナチスを利用して台頭し、実に03年までその抜群の才能発揮をほしいままにしたものだ。歴史研究としての本書の評価は私にはできないけれど、どの人の物語もとにかくおもしろい。私にはとくに、ゲルマン種族の繁栄のため夫の不倫を奨励するまでにナチズムを内面化しながら、戦後まもなく死の床でカトリックに回帰したボルマン夫人ゲルダ、高級オートクチュールとヒトラーに愛されることのほかは朗らかに無関心で、いそいそと死の地下壕に駆けつけたE・ブラウン、そしてイギリスの名門貴族出身のナチ信奉者としていつもヒトラーの傍らにありながら、その希求した独英連合の夢が破れると39年に自殺を試み、その銃弾を死の48年まで体内に留めたユニティ・V・ミトフォードのストーリーが哀切に感じられた。
この本の訳文が日本文としては実にぎこちなく、著しく興をそがれることだけが惜しまれる。
小説はといえば、「近年」というタイムスパンでは、桐野夏生『グロテスク
』(2003年)、吉田修一『悪人
』(2007年)、角田光代『八日目の蝉
』(2007年)を私のベストスリーとする。『悪人』は近く映画化されるという。しかるべき監督に恵まれたい。 この回が対象とする2010年厳冬では、不遇の生い立ちのなかでの近親相姦をねばりつく文体で描いて惹きつける桜庭一樹『私の男
』文藝春秋(2007年)と、川上未映子『ヘヴン
』講談社(2009年)が時間を忘れさせた。『ヘヴン』は周知のように、陰惨きわまるいじめに耐えて、耐えて、耐えぬく中学生男女二人の交流がテーマだ。展開ははりつめ、その緊迫感はひととおりではない。そして少女コジマは、その心のバランスを失うまでの最後の行動によって、ついに明日の輝きを少年「僕」に贈るにいたる。無神論の私も、このストーリーにほとんど宗教的な高みを感じ、こんな聖書の言葉を想起したものである。「彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい/人は彼を蔑み、見すてた/忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる/まことに彼は我々の病を負い/我々の悲しみを担った」。そう、学校の、そして職場のいじめは今日、「我々の病」なのだ。






